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樋口一葉

2009年5月18日 (月)

一葉が聴いた5月18日「大音楽会」

 樋口一葉の日記、明治28年5月――傑作を次々と生み出していった晩年の「奇跡の十四か月」のど真ん中。一葉23歳――に興味深い記載がある。

 “一八日の夜はじめて大音楽会場にのぞむ。新知己を二人得たり。場のありさま心よはき身の胸つぶるる如し”

 1895年5月18日(114年前の今日)、「大音楽会」があり一葉は足を運んだ。一葉にとってはこのような本格的な洋楽演奏会は初めてのことで、ちょっと気遅れ気味だったようだ。数日前に一葉は次のように書いており、神田美土代町の「東京基督教青年会館」の会場へ、野々宮きくと一緒にいったらしいことがわかる。

 “十三日 早朝、野々宮ぬし及び在清国芦沢より書状来る。(中略)野々宮君からは、音楽会の切符ととのへ置たれば他より求むる事見合せ給へとの事也。十八日美土代町にてあるべき青年音楽会の也けり。”

 一葉は切符を手に入れようと、積極的に周りの人に声をかけていたようだ。とすれば、一葉は音楽会の情報をどこから得たのだろうか。そうしてこの演奏会はどのような内容のものだったのだろうか。

 当時の音楽界の状況――滝廉太郎は前年、上野の高等師範学校付属音楽学校に入学している――、その会場であった「東京基督教青年会館」(神田区美土代町三丁目三番地〔現:千代田区神田美土代町7-1〕)――コンドルの設計、この音楽会の前年に竣工――のありようを探って、一葉の聴いた演奏会にこっそりと潜入してみたいと思うのですが・・・。

2009年5月 4日 (月)

田辺花圃の生誕年についてのメモ(旧暦と新暦の対応)

 先日、このブログのコメントに、――“歌塾「萩の舎」で学んだ一葉の学友を誕生年で見ると、田辺龍子(花圃)が1868年、太田竹子が1870年、樋口夏子(一葉)と伊東夏子が同じ1872年。”――と書きました。
 太田竹子の生誕年は、木下杢太郎側の資料から、田辺龍子(花圃)と伊東夏子のそれは、『樋口一葉と歩く明治・東京』から引用したものです。

 このうち田辺龍子の誕生年について、忘れないうちにメモしておきたいことがあります。田辺龍子(花圃)は、本人の文学活動に加えて、海外へ早くから交渉に出た幕臣・田辺太一の娘で、三宅雪嶺に嫁いだ経歴からも話題の多い人物です。その彼女が1868年生だとすると激動の明治維新の年ですから、いつごろ生まれたのか気になるところです。

 が、きょうの報告は形式的なことがらです。龍子の生まれたのは確認できたところでは、明治元年十二月二十三日。明治維新=1868年という常識的な知識からも、上に書いた龍子の生年1868年には何の問題もないように見えます。しかし、単純にはそう言えないのが、旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦/グレゴリウス暦)の対応です。

 旧暦が行われていた当時の明治元年11月18日が、グレゴリウス暦(G暦)で1868年の大晦日12月31日であり、その翌日、11月19日が、G暦の新年元日(1969年1月1日)となります。このように旧暦と新暦とでは日付は一致しませんし、年があらたまるのも違った日となります。そして、11日18日からさらに一か月ほどたっている龍子の誕生日〔明治元年12月23日〕は、G暦1969年2月4日なのです。
 龍子の生まれた日〔12月23日〕について言えば、明治元年であっても、《1868年ではなく、1969年なのです》。

 江戸時代以前は言うまでもなく、明治時代についてもグレゴリウス暦が実行される前の――“来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候”とされる前日の――明治5年12月2日までは、旧暦と新暦は平均で35日のずれがあり一致しないのです。一致するのは明治6年1月1日以降なのです。
〔明治5年12月2日=1972.12.31、その翌日は明治6年1月1日=1973.01.01〕
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=200312

 なんの偶然か、龍子と同じ旧暦の12月23日に生まれた作家がいます。徳田末雄(秋声)です。彼の場合は、明治4年12月23日で、新暦換算では、1872年2月1日となります。もちろんここでも明治4年=1871年というわけにはいきません。

 話を田辺龍子に戻しましょう。彼女について言えば、net上でもほとんどが生誕年を〔1868年〕としていますが、やはり西暦で表示する場合は、1869年とすべきではないでしょうか。徳田秋声についても、〔明治4年12月23日(1872年2月1日)〕と正確を期したものもありますが、西暦単独表示の場合、〔1871年〕が多く見られるようです。

〔追記〕
 新暦〔G暦〕実施以前に生まれた人々の生誕年(月日)の表記に、こだわるのにはいくつかわけがあるのですが、そのことについては、あらためて書きたいと思います。

2009年3月 1日 (日)

「たけくらべ」(四)(五)(六)

 1/30に書いたように、一葉の「たけくらべ」は、『文学界』に毎月分載されたのですが〔1895(明28)年〕、2月28日には、その四・五・六の3節が発表されました。

 一日遅れになりましたが、きょうその(四)(五)(六)を読みました。実は、こうやって一年かけて「たけくらべ」を読んでみようと思っているのです。

 一葉は、(五)では三五郎を、(六)では正太を、言動から涙までを眼に見えるように書きこんでいて、同性の美登利のことはともかく、どうしてこんな男の子の心うちまでもみごとに描けたのか不思議でなりません。22歳の一葉がです。

2009年1月30日 (金)

「たけくらべ」掲載始まり、掲載終わる

 明治28年1月30日、『文学界』に「たけくらべ」の(一)から(三)が発表される。以来、樋口一葉の「たけくらべ」は1年かけてこの『文学界』に分載されることになる。以下は分載データ。自分のためのメモ。

 1895(明28)年
   1月30日 (一)(二)(三)
   2月28日 (四)(五)(六)
   3月30日 (七)(八)
   8月30日 (九)(十)
   11月30日 (十一)(十二)
   12月30日 (十三)(十四)
 1896(明29)年
   1月30日 (十五)(十六)
 
   ※4月10日、「たけくらべ」は『文芸倶楽部』にあらためて一括掲載

 こうして1894(明27)年12月30日の『文学界』への「大つごもり」に始まった“奇跡の14か月”は終わり、この年(明治29)11月23日、一葉は23年6か月の生を終える。

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