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植物誌

2009年6月20日 (土)

あじさい諸相

 昨晩は、転勤が決まった友人の小送別会をやろうということになり、早めに勤務先を出ました。この手の集まりにはいつも遅れがちなのですが、かなり早めに着いてしまい、県庁前公園の辺りをうろうろしていて不思議な花を見つけました。

 花の一つ一つはなんとなくアジサイの雰囲気があるのですが、その白い花が、やや上向きに張り出した房状の花穂を形づくってみごとに咲いているのです。しかし葉は三裂していてアジサイとは違います。しいて言えば葉脈がやはりアジサイの葉を思い起こさせないこともないのですが・・・。

 で、きょう書店で図鑑を立ち読みしていたら、この三角錐状の房に花をつけたこの花の写真を見つけました。「ピラミット形の花序をもつアメリカ産のアジサイ、カシワバアジサイ」というような説明がついています。こうなったら居ても立ってもいられなくなって?、昨晩この花を見た街角に直行しました。図鑑の写真と私の印象にあった花が同じ花なのか確かめるためです。

 間違いなくその花はカシワバアジサイ(柏葉あじさい)でした。
 http://www.hana300.com/kasiaj.html

 その帰り道、「観音湯」――富山駅前のこの観音湯をご存じのクライマーの方は多いはず――の隣家との境にこれまた奇妙な花が咲いていることを発見。つる性の植物のようでしたが小花の集まった花序の部分、その小花が何色にも色が分かれているのです。わたしの筆力では描写できないので、写真をご覧にいれます。帰宅してからnetで調べたものです。
 http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/verbenaceae/lantana/lantana.htm

 「ランタナ」という名のこの花は、江戸時代からもう日本に来ているとのことにも驚いたのですが、「七変化」という和名にもちょっとしいた感慨がありました。そう、「七変化」は上に紹介したアジサイの別名でもあるのです。

 「七変化」から、花色のうつろいを人心の心変わりに掛けて詠んだ大伴家持の「言問はぬ木すら紫陽花・・・あざむかえけり」という難解な歌を、想い出しましたが、今あらためて調べてもよく意味がわかりません。中西進さんの注解を紹介しておきます。

 「言問はぬ木すら紫陽花諸弟らが練の村戸とにあざむかえけり」(「万葉集」巻第四・七七三)
 “ことばをいわぬ木だって紫陽花のような変化の花もあることよ。諸弟(もろと)らの練達の心にだまされてしまった。”

〔追記〕
 講談社文庫の中西さんの脚注に“《諸弟》人名か。以下難解で諸説ある。」とあって、《村戸(むらと)》には、腎臓のこと、とあります。たしかに角川ソフィア文庫の脚注(伊藤博)には、“練りに練った荘重な言葉の意か。「むらと」は「群詞」か”と異説が述べられています。

2009年6月 3日 (水)

酔仙翁――Dusty Miller――白妙菊

 先週末から我が家の庭に酔仙翁(スイセンノウ)が咲きだしました。“酔仙翁”と漢字で書くと、在来種のようだがこれは外来種。それは花を見ればわかることだが、原産地を確認しようとして、アッと驚いた。この花の英語名“Dusty Miller”を順々に検索していたとき、モニター画面に浮かび出たのは、スイセンノウではなく、先日来、その名を知りたいと図鑑などをのぞいていた銀白色の茎に黄色い花の咲く花だったのです。・・・その日本名?漢名?は“白妙菊”。

 “白妙菊”も名前だけ見れば、純在来種のようですが、さにあらず。これも写真を見ていただければあきらかなように洋物、名前から姿を思い浮かべることができない方も、「これ見たことあるよ」とおっしゃる方もおありかと思います。

 酔仙翁や白妙菊の、白い粉をまぶしたような葉や花茎は、“ダスティーミラーさん”と呼ばれる容姿というべきなのでしょうか。

 http://www.hana300.com/suinou.html
 http://www.hana300.com/sirota.html

〔追記〕
 旧日記に書いた「(スイ)センノウ」メモいくつか。
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&start=21&log=200707&maxcount=25

2009年5月17日 (日)

カナメモチの花

 生け垣のカナメモチの紅の新葉――カナメモチのなかでもレッドロビンという種が鮮やかです――に、「春にも紅葉する木があるのですね!」とコメントして周りのスタッフをしらけさせたテレビレポーターがいましたが、今、そのカナメモチが細かな花をつけています。というか見慣れない花をつけている樹があって近づいてみたらカナメモチだったので驚いたという次第でした。
http://shinrin.cool.ne.jp/sub141.html

 花相が春から何幕もかわっているのだが、追いついていってない私がいる。

2009年4月12日 (日)

久内清孝氏の命日

 今日4月12日は、先日来登場いただいている植物学者・久内清孝氏の命日になります。年齢的には牧野富太郎の20年ほどの後輩になり、牧野と並ぶほどの植物分類学者だったのではと思いますが、牧野と違い著書をわずか2冊――『植物採集と標本製作法』(本田正次と共著/1931)『帰化植物』(1950)――しか残していないことが、一般の知名度も学史上の評価をも低いものにしているのではないでしょうか。

 漱石宛ての手紙が残っているために漱石の書簡集にも久内清孝の名は載りながら、最近の漱石全集でさえ久内清孝に《不詳》の二文字しか与えていませんし、木下杢太郎の『百花譜』の執筆の大きな力になっていながら岩波文庫の解説に久内清孝の名前は登場していないのです。
 もちろんこれら、とりわけ若き日の漱石との交流は、植物学者久内の本領とは関わりのないことがらですが、植物学エリアでも久内の業績が評価されず、今では忘れられた存在になっていることが私などの門外漢にもとても残念なことです。
 折を見て、これからも久内氏のことを――植物学者としての復権に私は関われませんが、氏の文人としての側面の掘り起こしなら少しはできそうです――書いていきたいと思っています。

 今さらながらですが、氏の「著作集」を出すことは学問的に意義のないことなのでしょうか。

 *久内清孝 1884.03.10~1981.04.12

2009年4月 4日 (土)

わが家のハナミズキ

 ハナミズキの花芽がほころび始めました。

 昨春、知人に植えてもらったアメリカハナミズキ。どうも根付きが良くなかったのか土質が合わなかったのか、夏には根もとから葉が枯れて来てあわてたのですが、秋口に新芽が出てきてほっとしました。そして、ハナミズキ特有のミニ玉ねぎ形の花芽をつけて冬をこすことになりました。
 そのハナミズキの花芽が少し開き始めているのです。実は、この花芽もあきらかに枯れてしまっているものがかなりあり、心配していたのです。

 わが家で、ハナミズキの花が見られるなんて、なんて幸せなことでしょう。そう言えば、カツラの細枝に赤みがつき、ケヤキも樹によっては芽吹きの気配があります。春は、たしかにここにとどいているようです。

2009年4月 3日 (金)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(3)

 正直なところをいいますと、数か月前まで木下杢太郎の『百花譜』のことを私はまったく知りませんでした。書店の岩波文庫の棚でこの本を見つけても、さほど気にもとめず手にとってすぐ書棚に戻してしまった程度のものだったのです。そんな私がではなぜ今こんな「久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって」などという、話題でものを書いているのか・・・。自分でも不思議なのですが、夏目漱石と久内清孝をつなぐ何かを見つけようと手にした『久内清孝先生追悼集』に掲載の写真に「木下杢太郎」の名を見かけたのがそもそもの始まりなのです。
 といっても上に書いたように『百花譜』のことさえ知らなかった私は、そのときはその写真提供者の石崎達さんの追悼文をよく読むこともせず、いろんな方の書かれた追悼文を読み散らかしていただけなのです。ただ無意識のうちにも木下杢太郎のことが気になっていたのでしょう、随筆「すかんぽ」を読んで、急かされるような思いで『百花譜』を買い求めたのです。そしてそこに飾ることもなく展げられていた杢太郎の死に向けての写生という営みに心動かされて、私の杢太郎追っかけが始まり、そこでループの結節点である“久内氏”にまた出会ったのです。
 それ以後のことは先日来、縷々書いたとおりです。
 (以下、『久内清孝先生追悼集』中の石崎達氏の寄稿文から)

    ━━・・・・・・・‥‥……━━

 “私は大学で太田正雄先生を中心に時習会という文化研究会をやっていたので、太田先生の要請で植物採集会をやることになり、久内先生のご指導をねがった。これが久内先生と太田先生(木下木太郎)との交際の始めで、両先生はすぐ意気投合されて親交を深められたようである。太田先生は最後まで植物写生を続けられて、現在「百花図譜」(岩波書店)として残されているが、学生達の不勉強をさしおいて太田先生はたちまち植物分類学のコツを体得されて、その文学的記述だけでなく植物の写生そのものも立派である。ここまで指導されたのは久内先生だったことは知る人が少ないと思う。学生をぬきにして大学でよく会われたようでもある。私の手元にその採集会のときの写真がまだ残っている。久内先生の博学はすでに木下杢太郎のすべてを知り尽くしていたようである。
 戦争が終わって復員してみると、久内先生はご健在で安心したが、太田先生はすでに亡くなられていた。久内先生が太田先生の百花図譜を何とかするように私に言われたのもこの頃であった。”

2009年3月30日 (月)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(2)

 植物学者・久内清孝と作家・木下杢太郎の間に交流があり、杢太郎が戦時下で死の直前まで描き続けた植物の写生画集『百花譜』に久内がなんらかの形で関わっていたのではないか?。ここ数ヶ月、この疑問が頭を去らなかったのですが、昨日紹介した『目で見る木下杢太郎』(1981)と『久内清孝先生追悼集』(1982)の両書にともに収められていた「一枚の写真」がきっかけで、いろんなことがはっきりしてきました。
 この辺りのことを両書を引用しながら、紹介していきたいと思います。

 医学者・太田正雄(作家としては木下杢太郎)は、1926年(大15)年以来約10年間、東北帝国大学医学部皮膚科の教授を勤めた後、1937年東京帝国大学の医学部皮膚科に移り、教授として伝染病研究所などで研究教育に携わります。太田は、正規の授業のほかにも東北帝大では「森鴎外の会」、東京帝大では「時習会」という読書会を学生たちといっしょにひらいて学生と広い学びの場を持ちます。この東大寺代の「時習会」に久内氏も頻繁に参加することになるのです。
 以下、『目で見る木下杢太郎』の「東大教授時代」からの引用です。

    ━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━

 1937(昭和14)年5月25日の日記に、「学生の『時習会』。久内氏を聘し、植物採集の事につき聴聞。」とあり、5月28の日記には、「稲田登戸に植物採集。久内氏教導す」とある。
 ここにある『時習会』とは、東北大の『鴎外の会』のように、杢太郎の指導する東大医学生の読書会であった。

 曽根正蔵氏によると「『時習会』では最初は論語を読み、次いでプラトンの饗宴を独逸語訳で、更にゲオルグ・ジンメルの論文等、主として西欧古典が選ばれた。…この会に対する先生の真剣さは非常のもので、いつも相当の準備をして居られた。しかもそれぞれの専門家を招待して意見を聴き討論する。(中略)また春秋の候の日曜日にはしばしば郊外に植物採集に出かけた。この時はいつも久内清孝先生が同行されて、非常に楽しく植物の勉強をした。」

2009年3月28日 (土)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(1)

 古書店にたのんであった『目で見る木下杢太郎』(1981)が届きました。少し古い本ですが、書名の通りアルバム形式のもので、伊東市にある木下杢太郎記念館が発行した「木下杢太郎入門」ともいうべき整った本です。
 装丁にも杢太郎の絵が使ってあるこの本のページをぱらぱらと繰っていたとき、一枚の見覚えのある写真が目に飛び込んできたのです。東大医学部の教授であった太田正雄(木下杢太郎)と学生たちが立ち並んだ写真ですが、なんとも特徴的なのは、その写真の真ん中に、タバコを手にした不思議な人物が、飄然と立っているのです。

 “時習会のメンバーと植物採集に行った”と説明のある写真の真ん中に写っているのが、これから話題にしようとしている「久内清孝氏」であり、その横に少し離れて凛として立っているのが、久内氏を招いた太田正雄教授なのです。
 当時、文壇からは遠ざかっていた詩人・木下杢太郎が、医学者・太田正雄として植物学者久内清孝と出会うことによって、その詩心と絵心に再び灯をともされ、八百余枚に及ぶ杢太郎の晩年の植物スケッチ(「『百花譜』」が書かれることになったのではないか・・・。とすれば、二人の人生の交錯は、いつどのように始まり、その交わりはどのようなものだったのかが、ますます知りたくなってきます。

 『久内清孝先生追悼集』(1982)に、やはり、杢太郎こと太田正雄と久内清孝の写った「時習会」の写真はありました。その回顧写真の提供者であり、追悼文の寄稿者でもある石崎達氏――1982当時アレルギー治療研究の第一人者であった氏の若き姿が、久内氏の横に写り込んでいます――が、そこで生前の太田正雄と久内清孝の出会いの一端を語っており、『百花譜』の成立について思いもかけぬことがらを、書いていたのです。
 それは、杢太郎の最後のエッセイ「すかんぽ」に、かすかに示唆されている二人の出会いをじゅうぶんに補ってくれるものでした。

2009年3月22日 (日)

「雨降り花」小考

 「雨降り花」という語に初めて出逢ったのは、日塔貞子さんの詩「美しい春の来る村」でした。詩の一部を紹介します。

   明るく谷間をうずめて 光のそよぐように
   雨ふり花や堅香子の花の咲く
   静かな山の村があるのだという
   美しい春の来る村があるのだという

    (中略)

   もうじきに 雨ふり花や堅香子の花は
   あるがままに谷間をうずめて咲くだろう
   美しい春の来る村に咲きあふれるだろう
   私たちの希いにも明るい光を放って咲くだろう

と、この詩では「雨ふり花」と「堅香子(かたかご)」が一緒に詠われています。

 「雨降り花」がいったいどんな花なのか、興味津津で調べたことを、昨年、日塔貞子の詩を教えていただいた桜桃花会の皆さんのブログ「雪に燃える花」に書きこませていただいたのですが(*1)、先日、宮澤賢治の詩に詠みこまれた自然を見事な写真とともに取りあげておられるnenemuさんのブログ「イーハトーブ・ガーデン」で、カタクリに続いて日塔貞子が雨降り花と詠んだ花々が紹介されていました(*2)。

 *1)
 http://outoukakai.exblog.jp/7799208/
 *2)
 http://nenemu8921.exblog.jp/11135466/
 http://nenemu8921.exblog.jp/11144379/

 そこであらためて、「雨降り花」について、愚考してみた一応の結論を、参考までに書いておきます。

    ━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━

 梅雨期に開花する花々の一群(アジサイ、ホタルブクロなど。ヒルガオもここに含めてもいいでしょうか)も、「雨降り花」と呼ばれていますが、春先に咲く可憐な花々(アズマイチゲ、キクザキイチゲやイチリンソウなどのキンポウゲ科イチリンソウ属の花や同じくキンポウゲ科のセツブンソウやケシ科キケマン属のエゾエンゴサクの仲間など)を「雨降り花」と呼ぶのがこの語の古い用い方のようです。
 “この花を摘むと雨が降る”という言い伝え(禁忌伝承)の裏には、厳しい冬を乗り越えて芽吹いた生命へのいたわりを読みとることもできそうですが、本来の語義は、「雪が雨に替わる頃に咲きだす花」ではないかと思われます。いずれにせよ、春の雨のやさしさを想う時、スプリングエフェメラル(Spring ephemeral)という語にどこか通づるものを感じます。

2009年3月18日 (水)

ミチタネツケバナを摘む

 きょうもメモのみ。

 『イーハトーブ温泉学』、こま切れの時間の中で読み次いでいます。

 《ミチタネツケバナ》。この帰化植物、なんと驚いたことに平成時代になって広まった帰化植物のようです。ここ数年、この小花を意識のどこかに置きながら、眺めることも手にとることもなく過してきたことが、――説明しづらい気持ですが――とても残念に思えてきます。
 「タネツケバナ(種漬花)」の語源については、『柳宗民の雑草ノオト』の説明を引用すれば、“ちょうどこの花時が、発芽をよくするために、稲の種籾を水に漬ける時期に合致するからだという。いかにも、稲作国のわが国らしい名の付けようだ。”ということで、農業のTさんに確認する機会をもちたい。

 タネツケバナ:Cardamine scutata
 ミチタネツケバナ:Cardamine hirsuta

 ※自分の備忘用に確認しながらメモしておくと、柳宗悦氏の奥さんが先日紹介したアルト歌手柳兼子さん。二人のご長男が工業デザイナーの柳宗理氏、ご次男が美術史家の柳宗玄氏、ご三男が園芸家の柳宗民氏となる。

 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社――「日本」と「天皇」の誕生』(2009.3)
 この本を読める時間はいつになったらできるか・・・。

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