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近代建築

2009年6月21日 (日)

「時計台」2話

・《関西学院大の時計台》

 きのうの地元新聞で「関西学院大の時計台登録へ」の記事を目にしました。というより“ヴォーリズ”の名が、美しい写真と同時に目に飛びこんできたのでした。

 “文化審議会(西原鈴子会長)は19日、米国生まれの建築家ヴォーリズが設計した関西学院大学時計台(兵庫県西宮市)、真宗大谷派四日市別院本堂(大分県宇佐市)など23都道府県にある建造物116件を登録有形文化財にするよう塩谷立文部科学相に答申した。これにより登録数は計7628件となる。(中略)
 関西学院大の時計台は29年に建築された。キャンパスの中央にあり、左右対称の2階建て。アーチの付いた窓が連なるなど美しい形状で、国内に1500件以上の建築物を残したヴォーリズの代表作の一つ。”(共同通信)
 http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061901000482.html 

 ヴォーリズの名がというより、ヴォーリズの今に残る建築物が多く知られるようになるきっかけになるのではとうれしく思われたことでした。「関西学院大の時計台」については、gipsymaniaさんのブログ《ヴォーリズを訪ねて》↓をごらんください。
 http://gipsymania.exblog.jp/4727247/

・《中山時計店時計塔》

 5/31と6/1に“本郷大横丁の「小さな時計台」”として紹介した「中山時計店時計塔」が、《TIMEKEEPER 古時計どっとコム》の「明治の時計塔」の1項としてアップされました。この時計台のことを知りたいと長い間願ってきた私としてはとてもうれしいことです。私の霜川追跡がこんなかたちで明治文化の見直しの一助になることもあるのですね。
 http://www.kodokei.com/ot_014_k.html

2009年6月13日 (土)

公開展「吉田鉄郎とふるさと南砺」

 南砺市の福野高校にある“巖浄閣”(国指定重要文化財/旧富山県立農学校本館)で、吉田鉄郎を紹介する公開展「吉田鉄郎とふるさと南砺」が開かれているという(7月25日までの第二・第四土曜日のみ)。

 吉田鉄郎――。この富山県福野町(現・南砺市)出身の建築家については、鳩山・西川抗争?の一環として話題となった「東京中央郵便局」の設計者として、少し名前が知られるようになったかも知れない。

 この公開展のことを教えてくれたのは、今日、偶然たどりついた《高岡近代化遺産情報》というブログ。貴重な情報のつまったサイトである。

http://takaokaheritageinformation.blogspot.com/2009/05/blog-post_17.html
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/TO20090510511.htm

 *吉田鉄郎  1894.05.18~1956.09.08

〔追記〕
 「巖浄閣」は、この地に農学校をつくることに尽力した島巖(しま・いわお)にちなんだ命名。なお、net上には「富山県簡易農学校本館」「富山県立農学校本館」「富山県農学校本館」など校名の推移に沿ったさまざまな表記が見られるが、この建物が建築された1903(明36)年4月時点では、「富山県立農学校」である。
 http://www.tsuchiura1-h.ed.jp/pdf/d-acan9.pdf

2009年6月 7日 (日)

金沢にヴォーリズ設計の幼稚園が!

 金沢にヴォーリズの設計した幼稚園があることを、金沢の情報誌『そらあるき』で知りました。川上幼稚園と清泉幼稚園です。清泉幼稚園は今年の9月に解体されるとのこと。いずれにせよ、詳細は実見の上、報告したいと思います。

 ヴォーリズ(William Merrell Vories)については、ヴォーリズの流れを汲む一粒社ヴォーリズ建築事務所のサイトをご覧ください。
 http://www.vories.co.jp/company/history.html

2009年5月25日 (月)

幻の「滝の作品」を富山の街に探す

 一枚の素朴な筆致のパースに出会って釘づけになりました。古いものですが、なぜか不思議な魅力をもっているのです。

 “最初の県会議事堂 明治20年に県庁前に堀を隔てて建てられた”という説明がついています。『富山県のあゆみ』、――富山県の置県90年を記念してつくられたビジュアル県小史というべきもの――もしかしてこれに、写真が載っているのではと、淡い期待をもって開いてみたらば、写真ではなくパースがありました。富山県最初の県会議事堂の正面図です。

 滝廉太郎が幼少期に富山で1年半ほど暮らしたということで、後年の名作「荒城の月」は富山城址をモデルに作曲したもの、「お正月」や「雪やこんこん」は富山の冬が反映した作品、――という主張が近年よく見られます。そうした議論もいいのですが、滝の作品が間違いなくこの富山に存在していた事実をもっと掘り下げてみたいと思っています。ただしここにいう「滝の作品」とは、廉太郎の楽曲ではありません。廉太郎の年長の従兄弟、建築家の滝大吉の作品です。

 初代・県会議事堂と上新川郡会議事堂が、滝大吉の設計作品だという驚くべき事実をさりげなく教えてくれたのが松本正さんの『滝廉太郎』(*)でした。廉太郎同様(廉太郎以上にか)強い関心をもっている滝大吉の設計した建築物が富山にあったなどとは想定だにしていなかったのですから、この事実にはわくわくしました。“明治時代の県会議事堂の写真なら探せば見つかるかも”と思い、最初に手に取った本のページを、――多少というか、かなりというか、期待しつつ――繰ったら、写真ではなくパースが出てきた、というわけです。
 ただし廉太郎は有名でも、無名の滝大吉は県内の歴史家にとっては興味の対象外だったのでしょう。議事堂のパースには設計者の名前は記されていません。しかし廉太郎以上に、大吉は富山県にとって直接に有縁の人物だったのです。

 この県会議事堂と上新川郡会議事堂があったであろう場所を、旧地図と見比べてほぼ特定し、きょうその地に「パースに描かれた幻の建物を」訪ねてみました。あきらめていた「郡会議事堂」の場所探しも、「郡」とは何だったのかという問いと並行してほぼ「解」をみつけることができましたが、その報告――地図散策と小さな街歩き――は、また後日に。

〔追記〕*『瀧廉太郎』(松本正/大分県先哲叢書/大分県教育委員会/1995.3)
 叙述は淡々としていますが、あらたな発見をいくつもさせていただいた本です。残念なことにこの本は、非売品。

〔追記:2〕
 なんと今の私の知りたいことにぴったりと合った展示会が、富山城址公園内の「富山郷土博物館」で開かれているではありませんか!。《企画展「明治の富山城址――お城の跡の再開発」》。7月5日までですが、すぐにでも飛んでいきたい気持ちでいます。

2009年5月10日 (日)

京都で出会った二人の建築家

 きのう、きょうは個人的な用件で京都に行ってきました。いくつかこのブログでも報告したいことがあるのですが、忘れないうちに書きとめておきたいことの一つは、京都での“田辺朔郎”と“片山東熊”という明治時代を代表する設計者との出会いでした。出会いと言ってもこの過去の人物に、しかも正面からではなくある遺物(遺跡)を通してのかすかな、しかし偶然の出会いだったことで、印象はとても強いものがありました。

 現在の京都にも深く関わっている「琵琶湖疏水」。この設計者が当時20代前半の田辺朔郎だったのですが、この田辺朔郎は、先日紹介した樋口一葉の萩の舎での学友・田辺龍子(花圃)のいとこにあたる人物なのです。今回はこの「琵琶湖疏水」を訪ねたわけではないのですが――「琵琶湖疏水」探訪は、ぜひやりたいことの一つです――、偶然、琵琶湖疏水の鴨川への放水路を渡ったとき、川端通りのその橋の名をふと見ると「田辺橋」だったのです。こんなところで“田辺”の名前を目にするとは思わなかったので、驚くと同時に、別のいわれのある田辺では?とも疑ったのですが、今帰ってから確認すると間違いなく田辺を顕彰するために名づけられた橋名だったのです。

 今回は、“突然の”京都行きだったのですが、《宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )》という賢治のすばらしいサイトを運営されていて多くのことを教えていただいている浜垣さんに、無理を言って時間をとってもらって、お昼のわずかな時間お会いする機会を持ちました。
 お話をうかがうと同時に、賢治が父政次郎と京都を訪れた際、立ち寄った「中外日報」の跡地を案内してもらったのですが、お会いした場所が東山七条だったので、近くの三十三間堂見学もいっしょにお付き合いいただくことになりました。多くの仏教の尊像を見ることが賢治の仏教世界の深さを再認識する一縁になったのも、偶然とは言え貴重なことがらでした。

 「中外日報と賢治」に関わる話題は省略させてもらうとして、印象的だったのは、この東山七条にある「京都国立博物館」の威容かつ異様ともいえる外観でした。浜垣さんによると「賢治がここを訪れたときこの建物はすでにあったので、賢治も目にしているはず。」とのことでした。この歴史的風格のある建築物を遠目に見ながら、実はかなり胸騒ぎを覚えていたのです。この建物はおそらく明治時代の名のある建築家の手によるものではないのか・・・。

 帰宅してから調べてみてこの建物は、片山東熊によるものだということがわかりました。片山東熊は、ジョサイア・コンドルの弟子で、工部大学校の建築学科第1期生――つまり、辰野金吾、曽禰達蔵らと同期――。 明治の建築物や設計者に関心のある私には、なじみのある大建築家なのです。

 こうして京都で偶然にしかもさりげなく二人の建築家に出会い、この二人がともに偶然とは言え田辺花圃のいとこであること――片山東熊は、田辺朔郎の姉・鏡子と結婚している――にも、私には京都の文化の不思議を思い、帰路についたのでした。

2008年12月12日 (金)

「文翔館」と田原新之助

 歴史的な建造物の味わいが好きで、net上でもそうした建物を紹介しているブログをよく見ているのですが、思いがけないところで――日塔貞子企画展を紹介したブログ「雪に燃える花」――いい感じの建物を見つけました。現在は「文翔館」という名で親しまれている大正期の建造物・旧山形県庁です。
 「雪に燃える花」  http://outoukakai.exblog.jp/9041111/

 「建物逍遥」というすてきなブログに「文翔館」の興味深い紹介の記述がありましたので、そのまま引用させていただきます。

 “1926年(大正5年)6月15日落成。煉瓦造3階建て。外壁は花崗岩の石張り。スレート葺き。内装は装飾の施された漆喰壁が主体。幅62メートル、奥行き40メートル。延べ床面積6659平方メートル。権威主義を醸す英国ルネッサンス様式の意匠。
 設計した田原新之助はコンドルの内弟子として建築設計を学び始め、工部大学校(東大工学部の前身)で教鞭を執った曽禰達蔵の下で働き、曽禰中條建築事務所に就職。事務所の中條精一郎が米沢市出身だった縁で設計に当たった。落成の2カ月後、田原は死去した。”
 http://syoyo.jugem.jp/?month=200606

 設計者・田原新之助については生年もわかりませんが、コンドルの弟子というところも気になるところです。時間のある時に、経歴や作品を調べてみたいものです。なお、中條精一郎と田原新之助のコンビの作品としては、福島県白河市の「旧西白河郡役所」があるようです。
 http://maskweb.jp/b_nishishirakawa_1_1.html

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