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宮澤賢治

2009年4月11日 (土)

賢治はどこに生まれたのか(1)

 あれっ?と思い、気になって調べてみたら、不思議な事態になっていました。
 宮澤賢治の生誕地は、どこなのでしょう。

 まず気になったのは最近刊行されたPHP文庫『銀河鉄道の夜・風の又三郎・セロ弾きのゴーシュ』の「宮沢賢治・略年譜」。PHP文庫に「賢治童話集」が加わるという“えっ”と驚くようなことがらについては、その内容とあわせてあらためて書きたいと思うのですが、この童話集に付された澤口たまみさんの特徴的な「略年譜」を読み直していて「あれっ」と思ったのです。

 澤口さんの年譜は、賢治の出生を「八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町大字里川口字川口町(現花巻市豊沢町)に、質・古着商を営む宮沢家の長男として生まれる。」と、簡素かつ克明に書きだしてくださっていて、その生誕地にあらためて目がとまりました。「《稗貫郡花巻町》?、えっ、賢治は花巻町の生まれなの?・・・」

 私のこの疑義には、説明が必要でしょうね。賢治と言えば、当然「花巻」なのですから。これは、町村合併にからむ町村名の変更に関わっています。つい数年前にも市町村の大合併がありましたが、明治時代の中頃、1888年(明22)にも「市制・町村制」が施行され全国で町村の大合併が断行されました。岩手県の現花巻市周辺だけに限って取り上げると、このとき、花巻村、北万丁目村、高木村の一部が合併して「稗貫郡花巻町」、里川口村、南万丁目村が合併して「稗貫郡花巻川口町」ができたのです(*1)。

 つまり賢治が生まれた1896年(明29)時点では、《花巻川口町》と《花巻町》があったのです。問題は、ここからです。賢治の生まれた〔里川口川口町〕地区は、上の合併の経緯でもわかるように、――里川口村が、南万丁目村と対等?合併でできた――《花巻川口町》であって《花巻町》ではないのです。
 なお、この《花巻川口町》と《花巻町》は、1929年(昭4)に「(新)花巻町」に統合されます。賢治が1929年以後に生まれたのであれば、「稗貫郡〔花巻町〕大字里川口字川口町」生まれでいいのですが、1896年生まれた賢治は疑いもなく、《稗貫郡〔花巻川口町〕大字里川口字川口町》生まれでなければならないのです!。

 ・・・と、確信をもって言い切りたいところだったのですが、念のためにと思って取り出した――厳密な考証を経ていると考えられる――『新・宮澤賢治語彙辞典』(1999.7)には、驚くべき記述があり、困惑してしまいました。
 
 なんと、『新・宮澤賢治語彙辞典』の年譜には、賢治の生誕地を、《稗貫郡里川口村川口町三〇三番地》と記載しているのです。上に書いたように、賢治が生まれたのは町村制施行後であり、《里川口村》は、《花巻川口町》の大字となって、すでに行政村名としては消滅しているはずなのです。

 この謎は、どう解いたらいいのでしょうか。手元にあるこれも信頼度の高い年譜を期待をもって開いてみて、混迷はいっそう深まることになるのです。(続く)

2009年3月16日 (月)

賢治と小繋の農民たち

 書きたいことがいくつかあるのですが、時間がないので走り書きです。

 先日、3月10日は植物学者の久内清孝さんの誕生日(生誕125年)でした。実はこの日付については、異なった日が誕生日と書かれたものがあり、その辺りのことも書いておこうと思いながら、その際に一緒に話題にしようと思った久内清孝と木下杢太郎の出会いのことが準備不足で書けず、あらためて後日の課題としました。

 今年、生誕100年を迎える文人で、私が多少とも作品にふれた斎藤史(1909.02.14~2002.04.26)、大岡昇平(1909.03.06~1988.12.25)、滝沢克己(1909.03.08~1984.06.26)ら諸氏のことをそれぞれの誕生日に一言でも書こうと思いながら、これも見送りました。とりわけ忘れられがちな思想家・滝沢克己のことは書いておきたかったのですが、これもいずれ。
 
 『イーハトーブ温泉学』に触発されて岩手の山野に思いを巡らしていて、ふっとこれも岩手の山村・小繋のことが思い起こされて、急いで岩波新書『小繋事件』をさがしだしました。
 小繋村の入会山(いりあいやま)であった小繋山の所有名義が村の旦那(地頭)・立花喜藤太から村外の柵山梅八ら三人の共有に変わったのが、1897(明30)年。これが入会紛争の起点であったわけではないが、村民の生活の糧の山であった小繋の山が、第三者の経済的利害にさらされることになったその起点の年が、賢治の生年の翌年であること。この小繋山の一部を陸軍省の軍馬補充部に売り付け利を稼ごうとした村外者たちの利害と村民の生活が鋭角的に対立し、第一次小繋訴訟が始まったのが、1917(大6)。この訴訟が提訴され争われた場が当時、高等農林学校の学生であった賢治のいた盛岡の地方裁判所だったことも、何の因果なのだろう。もちろん賢治は当時、入会紛争などというものにまったく関心がなかったであろうが、賢治が土質調査に歩いた山々はじつはほとんどが農民の入会山であったことは銘記されていいことだと私には思えるのです。
 そして農民の生活を保障するはずの「入会権」が認定されず、なんと15年かかったこの第一次訴訟の第一審が盛岡地裁で原告敗訴に終わったのが、1932(昭7)年。晩年、農民の生と関わり苦闘した賢治の死の前年なのです。

 賢治の生まるごとが、小繋村の農民の入会紛争の日々と重なっていたという事実を、――ここでは十分に書けませんが、小繋村の田中正造とも言うべき小堀喜代七のこともあわせて――自分なりに咀嚼してみたいと思っています。

2009年3月13日 (金)

『イーハトーブ温泉学』

 『イーハトーブ温泉学』(岡村民夫/みすず書房/2008.7)。

 昨年、発売直後に金沢の書店で見かけ食指がうごいたのですが、さまざまな理由で放念。きょう別の書店で40冊ほどの賢治論の中の一冊として再会・・・という次第です。
 読みかけですが、「温泉」という視角から賢治に迫る斬新さと、そこから筆者の見通し得たものの広さ深さに、久しぶりに読みごたえのある賢治論に出会った気がしています。
(実は、強風のためJR線がストップし、便宜的に乗せてもらった特急列車の、しかし動かない3時間の車中でわくわくしながら読みました。)

 内容をていねいに紹介する根気がないので、また本論から離れた話しになってしまうのですが、ちょうど許された時間で読み進んだところ――「東の軽便鉄道、西の電車」の節――で、花巻電気株式会社の社長として、先日来気になっていた「菊池忠太郎」の名前が登場しています。この菊池という人物についてもより踏み込んだ関説があることを期待しつつ、続きは明日にしたいと思います。

2009年2月23日 (月)

「おくりびと」の賢治と親鸞

 「おくりびと」が、話題である。そりゃ、アカデミー賞ともなればたいへんなもんだ。この映画の監督、滝田洋二郎氏が富山県の出身だということで周りでも少しさわぎが大きいようです。が、小さな声で、言っておきますがこの映画まだ見てないのです。が、小さな声であっても、もう一つ言っておきたいことは、この映画の主演の本木雅弘さんが15年前に読んで以来、胸に温めてきてこの映画のテーマのみなもとになったというその本とは、『納棺夫日記』という青木新門さんの作品であること。

 今は、文春文庫でも読めますがこの本が単行本として世にでたのは、――青木さんのあとがきが「平成五年二月二十八日」ですから――ちょうど「16年前」。この本を手にしたときの感動は今も鮮やかです。大事にとってあった「初版本」の奥付をみると、残念なことにそれは初版ではなく同年の7月の「第五版」でしたが。

 久しぶりに開いてページをくっていると、“「死」というものに一層こだわりながら、いろんな書物をよんでいるうちに、宮沢賢治と親鸞に特別な関心をもつようになっていた。二人に絞られていったのは、人が死を受け入れようと決意した瞬間の不思議な現象を解く鍵を、宮沢賢治と親鸞が握っているように思えてきたからである。”という一節が目に入りました。そうです、今思い出したのですが、15年ほど前、賢治をあらたに読み直す機会をつくってくれたのが青木さんのこの本だったのです。
 ぜひ、静かな時間をつくって再読したいと思います。15年前の自分とも出会える気がするので。。。

〔追記〕
 これをちょうど書いているとき地元のチューリップテレビの小特集(「ニュース深夜便」)で青木新門さんが本木雅弘さんとのあれこれを語っておられて、本木さんの中でインドでの仏教の生死観との出会いがオーバーラップしている話など感銘深く見ました。こうしたことももう一度書く気機会をもちたいと思います。

〔追記の追記〕
 本木さんは、この点をある鼎談で、《インド体験と、『納棺夫日記』に感じた「光」》と述べています。
 http://www.1101.com/okuribito/2008-11-26.html

2008年12月26日 (金)

「農」の実践に賢治をいざなった人々

 宮沢賢治と「農」を深く結ぶ契機をつくった人間として、友人“保阪嘉内”と、盛岡高等農林に息づいていた農思想の淵源である“津田仙”を考えています。
 実は、今年ゆっくりと賢治と津田仙が共有するものを探っていこうと思っていたのですが、一歩目さえ踏み出すことができませんでした。賢治と津田仙は直接の面識はありません。津田仙の愛弟子であった玉利喜造〔盛岡高等農林の初代校長!〕とさえ、賢治は接する機会を持ちませんでした。しかし、結論だけを言えば、玉利喜造が築いた高等農林の学風を通して賢治は津田と向かい合ったことがあったと私は考えています。

 そんなことを、来年はじっくりと解きほぐしてみたいと思っています。その際、津田と賢治の傍らに“田中正造”をおいてみたいと考えています。

〔追記〕
 そう言えば、nenemuさんのブログ《イーハトーブ・ガーデン》に、4月末に次のような書き込みをしていました。

 “賢治が自分の畑にアスパラガスを植えていたとは知りませんでした。こんなところに津田仙と宮沢賢治のつながりを見いだせるのはうれしいことです。津田仙は梅子の非情な?父として名を挙げられることが多かったのですが、最近、西洋農学の移植者として再評価され始めたようです。アスパラガスの栽培を日本ではじめておこなったのも津田仙でした。
 盛岡高等農林がどのような農業教育と実践をおこなっていたか、津田が当時の農業教育でどのように評価されていたか調べたことはないのですが、津田の創刊した「農業雑誌」は1920年まで発行されていましたから賢治は盛岡高等農林在学中、目にしていたはずです。”

2008年8月23日 (土)

ことしの宮沢賢治賞奨励賞

 

ことしの宮沢賢治賞――「第18回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞」――の「奨励賞」に、net上で賢治について多くのことを教わっている浜垣誠司さんが受賞されました。とてもうれしいことです。
 授賞理由として『賢治に関する表現活動の場としてインターネットのサイト上に「宮沢賢治の詩の世界」を立ち上げ、「全詩一覧・草稿一覧」、詩稿の下書きなど、パソコンでの調査研究を可能にした先駆的な業績に対して。』と、花巻市のHPに書かれています。
 http://www.city.hanamaki.iwate.jp/news/general/2008/8/1219310630227.html
 http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20080822_9

 「曠大無邊な宮澤賢治の詩の世界を、なんとかして直観的に見わたしやすくする方法はないものだろうか、そう思ってこのサイトをつくりはじめました。」という浜垣さんのサイト(ブログ)「宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )」は;
 http://www.ihatov.cc

〔追記1〕
 今確認しましたら、浜垣さんと賢治の短歌“桃青の夏草の碑はみな月の青き反射のなかにねむりき”をめぐって、刺激的な対話をさせていただいたのは、ちょうど一年前のことでした。

 http://www.ihatov.cc/blog/archives/2007/08/1912.htm

〔追記2:以下は浜垣さんのブログに書かせていただいたメッセージです。〕
 「受賞おめでとうございます」と、お祝いのメッセージをお伝えします。

 浜垣さんのブログにコメントを書くきっかけ(勇気?)を与えてくださったnenemuさんのブログ「イーハトーブ・ガーデン」にも、お祝いとお礼とがごっちゃになったコメントを書かせてもらいましたが、こうしたインターネット上での賢治世界との出会い・発掘の可能性も浜垣さんの受賞の射程に入っているのではないかとも思えてきました。このように浜垣さんの名誉ある受賞を広くとらえることで――浜垣さんの労作への顕彰の意味はそのことでまったく減じるものではありませんが――インターネットで賢治に接することのできる私たちへのこれからの可能性についてのうれしいメッセージだと受け取ることもできるように思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。

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