無料ブログはココログ

滝廉太郎

2009年5月23日 (土)

「滝廉太郎修学の地」碑

 富山市立図書館に行ったついでに近くの「楽聖 瀧廉太郎の像」を久しぶりに訪れました。袴をはいた小学生の廉太郎がコマを持っている像です。この像の横に、富山市教育員会の案内板があったので、写してきました。

 富山時代の廉太郎については、新たな報告もあるのですが、そのための導入に転記しておきます。

  ━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━

   滝廉太郎修学の地

 近代日本の生んだ代表的作曲家滝廉太郎(明治12年8月20日生)は、明治19年8月から1年8か月余りの間、父滝吉弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として着任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごした。
 富山在任の間、廉太郎は旧富山城内「赤蔵跡」(現在の堺捨旅館の所在地)にあった富山県尋常師範学校小学校の一学年に転入学し、同三年の半ばまで在学した。
 廉太郎の一連の作曲の中でも「お正月」「雪やこんこん」などは、後年富山の生活をしのんで作曲されたものといわれている。わずか23年10か月の若さで没したが、この間に後生にのこる数々の名曲を作った。
 修学碑は、滝廉太郎の生誕百年を記念し、富山県九州人会「おきよ会」が、廉太郎ゆかりの地の建立したものである。

〔追記〕
 この説明板が「お正月」「雪やこんこん」という『幼稚園唱歌』(曲集)中の歌をあげているのは、注目していいと思います。廉太郎自身が神奈川県時代に幼稚園に通ったという記録はないようですが、この曲集――多くの曲が東クメの作詞――の作曲にあたって、小学校低学年時代を過ごした富山の地の生活を懐かしく思い出したことはありうることです。
 余談ですが、賢治兄弟(賢治、トシ、清六)がこの『幼稚園唱歌』中の「ほうほけきょ」(作詞作曲とも滝廉太郎)を歌っていたことを、佐藤泰平氏が報告されています↓。
 http://www.mlaj.gr.jp/docments/2003/sato.htm

 なお、この説明板――転記にあたって数字の表記を変えました――は、昭和54年9月に書かれているのですが、文中の「堺捨旅館」は、「マンション堺捨」になっています〔富山市丸の内1丁目5-8/堺捨ビル〕。

2009年5月 2日 (土)

5月1日、廉太郎一家、富山を去る

 「非職」。この見慣れないことばの意味を知りたいと思いながら、いまだに充分に調べてないままである。辞書には「官吏が地位はそのままで職務だけ免ぜられること。」とあり、さらには「分限処分の一つ」と言われても、よくわからないが、今のことばで言えば「休職」というになるのだろうか。必ずしも本人の失責による懲戒処分的なものとは限らないようである。

 この「非職」の文字を今日も「滝廉太郎」の年譜であらためて目にして、もう少し具体的な意味合いを知りたくなったのだがそれは後日の課題にしようと思う。

 “明治21年(1888)4月24日、〔父〕吉弘、非職を命ぜられる。5月1日、一家は富山を出立。北陸道を経て、5月6日東京着。麹町区上二番町二番地に落ち着き、麹町尋常高等小学校三年生に転入。”

 廉太郎の父は、富山県書記官を「非職」となり、121年前の昨日、滝一家は1年半余生活した富山を離れたのである。

 2週間前に、東京で廉太郎の居住地を番町界隈や西片町に追ったことのことの記録を書こうと思いながらまだ果たしていません。連休中の課題にしたいと思っています。

〔追記〕
 上の年譜は、松本正『大分県先哲叢書 瀧廉太郎』(大分県教育委員会/1995.3)によっています。この本によって、私が「めぐり逢うことばたち」(旧日記)に書いてきた廉太郎関係の記載にのいくつかに、訂正が必要なことがわかりました。そうしたこともおいおい書いていきたいと思います。

最近のトラックバック

2016年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31