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2009年5月10日 (日)

京都で出会った二人の建築家

 きのう、きょうは個人的な用件で京都に行ってきました。いくつかこのブログでも報告したいことがあるのですが、忘れないうちに書きとめておきたいことの一つは、京都での“田辺朔郎”と“片山東熊”という明治時代を代表する設計者との出会いでした。出会いと言ってもこの過去の人物に、しかも正面からではなくある遺物(遺跡)を通してのかすかな、しかし偶然の出会いだったことで、印象はとても強いものがありました。

 現在の京都にも深く関わっている「琵琶湖疏水」。この設計者が当時20代前半の田辺朔郎だったのですが、この田辺朔郎は、先日紹介した樋口一葉の萩の舎での学友・田辺龍子(花圃)のいとこにあたる人物なのです。今回はこの「琵琶湖疏水」を訪ねたわけではないのですが――「琵琶湖疏水」探訪は、ぜひやりたいことの一つです――、偶然、琵琶湖疏水の鴨川への放水路を渡ったとき、川端通りのその橋の名をふと見ると「田辺橋」だったのです。こんなところで“田辺”の名前を目にするとは思わなかったので、驚くと同時に、別のいわれのある田辺では?とも疑ったのですが、今帰ってから確認すると間違いなく田辺を顕彰するために名づけられた橋名だったのです。

 今回は、“突然の”京都行きだったのですが、《宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )》という賢治のすばらしいサイトを運営されていて多くのことを教えていただいている浜垣さんに、無理を言って時間をとってもらって、お昼のわずかな時間お会いする機会を持ちました。
 お話をうかがうと同時に、賢治が父政次郎と京都を訪れた際、立ち寄った「中外日報」の跡地を案内してもらったのですが、お会いした場所が東山七条だったので、近くの三十三間堂見学もいっしょにお付き合いいただくことになりました。多くの仏教の尊像を見ることが賢治の仏教世界の深さを再認識する一縁になったのも、偶然とは言え貴重なことがらでした。

 「中外日報と賢治」に関わる話題は省略させてもらうとして、印象的だったのは、この東山七条にある「京都国立博物館」の威容かつ異様ともいえる外観でした。浜垣さんによると「賢治がここを訪れたときこの建物はすでにあったので、賢治も目にしているはず。」とのことでした。この歴史的風格のある建築物を遠目に見ながら、実はかなり胸騒ぎを覚えていたのです。この建物はおそらく明治時代の名のある建築家の手によるものではないのか・・・。

 帰宅してから調べてみてこの建物は、片山東熊によるものだということがわかりました。片山東熊は、ジョサイア・コンドルの弟子で、工部大学校の建築学科第1期生――つまり、辰野金吾、曽禰達蔵らと同期――。 明治の建築物や設計者に関心のある私には、なじみのある大建築家なのです。

 こうして京都で偶然にしかもさりげなく二人の建築家に出会い、この二人がともに偶然とは言え田辺花圃のいとこであること――片山東熊は、田辺朔郎の姉・鏡子と結婚している――にも、私には京都の文化の不思議を思い、帰路についたのでした。

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 当初、上の記事では「疎水」の漢字を遣っていたのですが、固有名詞としての「琵琶湖疏水」の用字法に従い、「疎水」を「疏水」に変更しました。

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