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2009年5月

2009年5月31日 (日)

『明治・東京時計塔記』――本郷大横丁の時計台は…

  『明治・東京時計塔記』(平野光雄) という本があることを知りました。装幀は木村荘八。
 初版は、1958(昭和33)/青蛙房。改訂増補版は、1968(昭和43)/明啓社。現在絶版で、古書ではかなり高価のようです。
 http://www.kodokei.com/dt_014_4.html

   木村荘八の装幀というのも、一見してみたい理由ですが、別の理由があります。ずっと、三島霜川の「昔の女」〔『中央公論』明治41年12月〕の“小さな時計台の下から大横町に曲がって”の一節にある《時計台》が気になっているのです。残念なことに、この本、近隣の公立図書館にはありません・・・。

 霜川の「昔の女」の一節を、本郷街歩きの参考も含めて少し長めに引用しておきます。(表記は、適宜変更)

    ━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━

 “間もなく路は明るくなって千駄木町になる。それから一家の冬仕度について考えたり、頭の底の動揺や不安について考えたり、書こうと思う題材について考えたりして、いつか高等学校の坡(どて)のところまで来た。また墓場と寺がある……、フト、ぐうたらなる生活状態の危険を思って慄然(ぞっ)とした。
 坡について曲る。少し行くと追分の通りだ。都会の響がガヤガヤと耳に響いて、卒倒でもしそうな心持ちになる……なんだか気がワクワクして、やたらと人に突き当たりそうだ。板橋通いのがたくり馬車が辻を曲りかけてけたたましく鈴(べる)を鳴らしていた。俥、荷車、荷馬車、それが三方から集って来て、ここでちょっと停滞する。由三はこの関門を通り抜けて、森川町から本郷通りへブラリブラリ進む。雑踏(ひとごみ)の中をちょっと古本屋の前に立ち停まったり、小間物店や呉服店をチラと覗いて見たりして、毎(いつも)のように日影町から春木町に出る。二三軒雑誌を素見(ひや)かして、中央会堂の少し先から本郷座の方に曲った。なんということはなかったがウソウソと本郷座の広っ場に入って見た。閉場中だ。がもう三四日で開くということで、立看板も出ておれば、木戸のところに来る××日開場というビラも出ていた。茶屋の前にはチラチラ光っている俥が十二三台も駢(なら)んで何んとなく景気づいていた。由三は何かこう別天地の空気にでも触れたような感じがして、ちょっと気が浮わついた。またウソウソと引き返して電車路(みち)に出る。ヤンワリと風が吹き出した。埃が軽く立つ。
 どこという的(あて)もなく歩いて見る気で、小さな時計台の下から大横町に曲がって、フト思い出して、通りから引っ込んだ肉屋で肉を購った。そしてその通りを真っ直ぐに壱岐殿坂を下って砲兵工廠の傍に出た。明るい空に渦巻き登る煤煙、スクスク立つ煙突、トタン屋根の列車式の工場、黒ずんだ赤煉瓦の建物、埃に塗された白亜、破れた硝子窓、そして時々耳をつんざくように起る破壊的の大響音……由三はその音その物象に、一種いわれぬ不愉快と威圧を感じながら、崩れかかった長い長い土塀に沿って小石川の方に歩いた。真砂町、田町、川勝前から柳町にかけて、その通りには古道具屋が多い。”

〔追記〕
 現在の本郷大横丁通りについては;
 http://www.ba.tyg.jp/~kitada/hongo-oyokocho00.html

2009年5月30日 (土)

企画展「明治の富山城跡――お城の跡の再開発」

 先日(5/23)、滝廉太郎が、父の富山在任中通った小学校が、富山県師範学校の附属小学校だったこと、この学校が富山城内にあった「赤蔵」跡に建てられていたことなどを、「滝廉太郎修学の地・碑」の記載によって紹介しました。実はこの「赤蔵」とは何を納めていた蔵なのか、気になって手元の資料で調べてみたのですがわからず、富山市郷土博物館のHPなどを見てみたのですが、やはり書かれてないのです(“味噌”でしょうか?。どこかで説明を読んだ記憶があるのですが・・・)。
 ・・・・と、残念顔だったところに目に飛び込んできたのが今、富山市郷土博物館で企画展「明治の富山城址――お城の跡の再開発」が開催中という告知でした。
 土曜になるのを待って、富山駅から自転車で富山城址にある「富山市郷土博物館」に向かいました。「赤蔵」のこともさることながら、滝大吉の設計になる「県会議事堂」も「郡会議事堂」も明治20年に富山城の三の丸跡に――まさに「お城の跡の再開発」の一環として――建てられたものであり、何か、新しい情報が得られるのでは、という思いがあったのです。

 この企画展の説明資料には滝大吉の名はなく、少しばかりがっかりしたのですが、この展示が7月までということなので、学芸員の方に蛮勇をふるっていろいろ尋ねてみたいとみたいと思っています。それはともかく、江戸末期から明治、大正期、昭和期の地図の現物が展示してあってこれには見入ってしまいました。こうした地図は部分的に郷土史の本などに引用されているのですが、町が色分け彩色され、青い水路も明確に読みとれる、もちろん全体図そのままの現物地図は、やはりうれしいものなのです。あっ、明治時代ここで道は曲がっていたのか、こんなところに水路があってここに流れ込んでいたのか、など発見とさらなる疑問に満たされた“時”を過ごしました。この詳細は私のあまりにローカルで瑣末な関心事ですのでここに書くことを控えますが、小さなしかしたっぷりのご満悦気分で帰ってきたことでした。

〔追記〕
 上に書いたように、1887(明20)年建築の「富山県会議事堂」「上新川郡会議事堂」が、滝大吉の設計によるものだという説明資料はなかったのですが、その建築場所は特定できました(*)。それら富山城跡に次々に建てられた建築物が明治32年の大火で焼失してまったこと(この時、夭折した滝廉太郎も設計者・大吉も在世中)、この残念な事実も確認事項の一つでしたが。

2009年5月25日 (月)

幻の「滝の作品」を富山の街に探す

 一枚の素朴な筆致のパースに出会って釘づけになりました。古いものですが、なぜか不思議な魅力をもっているのです。

 “最初の県会議事堂 明治20年に県庁前に堀を隔てて建てられた”という説明がついています。『富山県のあゆみ』、――富山県の置県90年を記念してつくられたビジュアル県小史というべきもの――もしかしてこれに、写真が載っているのではと、淡い期待をもって開いてみたらば、写真ではなくパースがありました。富山県最初の県会議事堂の正面図です。

 滝廉太郎が幼少期に富山で1年半ほど暮らしたということで、後年の名作「荒城の月」は富山城址をモデルに作曲したもの、「お正月」や「雪やこんこん」は富山の冬が反映した作品、――という主張が近年よく見られます。そうした議論もいいのですが、滝の作品が間違いなくこの富山に存在していた事実をもっと掘り下げてみたいと思っています。ただしここにいう「滝の作品」とは、廉太郎の楽曲ではありません。廉太郎の年長の従兄弟、建築家の滝大吉の作品です。

 初代・県会議事堂と上新川郡会議事堂が、滝大吉の設計作品だという驚くべき事実をさりげなく教えてくれたのが松本正さんの『滝廉太郎』(*)でした。廉太郎同様(廉太郎以上にか)強い関心をもっている滝大吉の設計した建築物が富山にあったなどとは想定だにしていなかったのですから、この事実にはわくわくしました。“明治時代の県会議事堂の写真なら探せば見つかるかも”と思い、最初に手に取った本のページを、――多少というか、かなりというか、期待しつつ――繰ったら、写真ではなくパースが出てきた、というわけです。
 ただし廉太郎は有名でも、無名の滝大吉は県内の歴史家にとっては興味の対象外だったのでしょう。議事堂のパースには設計者の名前は記されていません。しかし廉太郎以上に、大吉は富山県にとって直接に有縁の人物だったのです。

 この県会議事堂と上新川郡会議事堂があったであろう場所を、旧地図と見比べてほぼ特定し、きょうその地に「パースに描かれた幻の建物を」訪ねてみました。あきらめていた「郡会議事堂」の場所探しも、「郡」とは何だったのかという問いと並行してほぼ「解」をみつけることができましたが、その報告――地図散策と小さな街歩き――は、また後日に。

〔追記〕*『瀧廉太郎』(松本正/大分県先哲叢書/大分県教育委員会/1995.3)
 叙述は淡々としていますが、あらたな発見をいくつもさせていただいた本です。残念なことにこの本は、非売品。

〔追記:2〕
 なんと今の私の知りたいことにぴったりと合った展示会が、富山城址公園内の「富山郷土博物館」で開かれているではありませんか!。《企画展「明治の富山城址――お城の跡の再開発」》。7月5日までですが、すぐにでも飛んでいきたい気持ちでいます。

2009年5月24日 (日)

「無理かも……が……」

 5/6に部分的に紹介した久保田万太郎の「無理かも……が……」という三島霜川にふれられた小文を、「久保田万太郎全集〈第15巻〉」(1968.6)から転記しておきます。「昭和30年3月、「岩波文庫」“古典を読まう”として、執筆」(あとがき)されたもの。
 旧かなづかいは、現在の表記にあらためました。

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 無理かも……無理な註文かも知れない。
 が
 それこそ、二十冊に一冊でもいい、三十冊に一冊でもいい、いやしくも明治から大正にかけての文学史に名まえをとどめた作家たち……とくに、嘗ての時代時代に、ある程度、活躍し、一応、名声をえたにかかわらず、その後、何んらかの理由で、影がうすれたり、行方を消したり、あるいは若くして死んだりした、不幸な、不運な作家たち仕事を、この文庫のなかでとりあげてもらえないものだろうか?
 たとえば、誰か?
 童話作家以前の小川未明である。
 演劇学者以前の小山内薫である。
 水野葉舟である。
 三島霜川である。
 牧野信一である。
 さらに、もっと、話の幅をひろげるならば、一葉に対しての北田薄氷を、風葉に対しての柳川春葉を、綺堂に対しての山崎紫紅を……といった工合にまで手をのばしてもらいたいのである。その、それぞれの個人的評価をこえての、もっと大きな観点からなされるこの仕事(ぼくの希望はそうありたいのである)は、必ずや、“岩波文庫”に、また一つの見識を加えるにちがいないと思うのである。

2009年5月23日 (土)

「滝廉太郎修学の地」碑

 富山市立図書館に行ったついでに近くの「楽聖 瀧廉太郎の像」を久しぶりに訪れました。袴をはいた小学生の廉太郎がコマを持っている像です。この像の横に、富山市教育員会の案内板があったので、写してきました。

 富山時代の廉太郎については、新たな報告もあるのですが、そのための導入に転記しておきます。

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   滝廉太郎修学の地

 近代日本の生んだ代表的作曲家滝廉太郎(明治12年8月20日生)は、明治19年8月から1年8か月余りの間、父滝吉弘が富山県書記官(現在の副知事職に相当)として着任したことから、少年時代の一時期を富山の地で過ごした。
 富山在任の間、廉太郎は旧富山城内「赤蔵跡」(現在の堺捨旅館の所在地)にあった富山県尋常師範学校小学校の一学年に転入学し、同三年の半ばまで在学した。
 廉太郎の一連の作曲の中でも「お正月」「雪やこんこん」などは、後年富山の生活をしのんで作曲されたものといわれている。わずか23年10か月の若さで没したが、この間に後生にのこる数々の名曲を作った。
 修学碑は、滝廉太郎の生誕百年を記念し、富山県九州人会「おきよ会」が、廉太郎ゆかりの地の建立したものである。

〔追記〕
 この説明板が「お正月」「雪やこんこん」という『幼稚園唱歌』(曲集)中の歌をあげているのは、注目していいと思います。廉太郎自身が神奈川県時代に幼稚園に通ったという記録はないようですが、この曲集――多くの曲が東クメの作詞――の作曲にあたって、小学校低学年時代を過ごした富山の地の生活を懐かしく思い出したことはありうることです。
 余談ですが、賢治兄弟(賢治、トシ、清六)がこの『幼稚園唱歌』中の「ほうほけきょ」(作詞作曲とも滝廉太郎)を歌っていたことを、佐藤泰平氏が報告されています↓。
 http://www.mlaj.gr.jp/docments/2003/sato.htm

 なお、この説明板――転記にあたって数字の表記を変えました――は、昭和54年9月に書かれているのですが、文中の「堺捨旅館」は、「マンション堺捨」になっています〔富山市丸の内1丁目5-8/堺捨ビル〕。

2009年5月21日 (木)

芭蕉旅立って6日目

 ほとんど毎年、私の恒例行事になっている5月16日の「“芭蕉おくのほそ道旅立ちの日”追憶」書き込み。そろそろかな、と気にはしていたのですが、「16日」という日付が記憶されておらず、今年は奥の細道旅立ちのかげながらの同行の機会を逸してしまいました。今日、「21日」(旧暦:四月三日)はもう黒羽に着く日なのです。

 去年の5月21の旧日記をそのまま転記しておきます。今年も折々に芭蕉一行の旅次を思い起こしていきたいと思います。

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《曾良随行日記》
一 同三日 快晴。辰上尅、玉入ヲ立。
 鷹内ヘ二里八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱里ニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱里。
 沢村ヨリ太田原ヘ二里八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三里ト云ドモ二里余也。
 翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

http://d.hatena.ne.jp/kaguragawa/20040521

〔補記〕
 ・6日目(6/156)
 ・出立:玉生〔下野/栃木県〕~~泊り:余瀬の翠桃宅〔下野/栃木県大田原市〕
 ・那須野を馬を借りて行く

 ※曾良の日記では、距離数の「里」は、片仮名で「一リ」「二リ」と書かれていますが、この「リ」をは「里」と漢字表記しました。

2009年5月18日 (月)

一葉が聴いた5月18日「大音楽会」

 樋口一葉の日記、明治28年5月――傑作を次々と生み出していった晩年の「奇跡の十四か月」のど真ん中。一葉23歳――に興味深い記載がある。

 “一八日の夜はじめて大音楽会場にのぞむ。新知己を二人得たり。場のありさま心よはき身の胸つぶるる如し”

 1895年5月18日(114年前の今日)、「大音楽会」があり一葉は足を運んだ。一葉にとってはこのような本格的な洋楽演奏会は初めてのことで、ちょっと気遅れ気味だったようだ。数日前に一葉は次のように書いており、神田美土代町の「東京基督教青年会館」の会場へ、野々宮きくと一緒にいったらしいことがわかる。

 “十三日 早朝、野々宮ぬし及び在清国芦沢より書状来る。(中略)野々宮君からは、音楽会の切符ととのへ置たれば他より求むる事見合せ給へとの事也。十八日美土代町にてあるべき青年音楽会の也けり。”

 一葉は切符を手に入れようと、積極的に周りの人に声をかけていたようだ。とすれば、一葉は音楽会の情報をどこから得たのだろうか。そうしてこの演奏会はどのような内容のものだったのだろうか。

 当時の音楽界の状況――滝廉太郎は前年、上野の高等師範学校付属音楽学校に入学している――、その会場であった「東京基督教青年会館」(神田区美土代町三丁目三番地〔現:千代田区神田美土代町7-1〕)――コンドルの設計、この音楽会の前年に竣工――のありようを探って、一葉の聴いた演奏会にこっそりと潜入してみたいと思うのですが・・・。

2009年5月17日 (日)

カナメモチの花

 生け垣のカナメモチの紅の新葉――カナメモチのなかでもレッドロビンという種が鮮やかです――に、「春にも紅葉する木があるのですね!」とコメントして周りのスタッフをしらけさせたテレビレポーターがいましたが、今、そのカナメモチが細かな花をつけています。というか見慣れない花をつけている樹があって近づいてみたらカナメモチだったので驚いたという次第でした。
http://shinrin.cool.ne.jp/sub141.html

 花相が春から何幕もかわっているのだが、追いついていってない私がいる。

2009年5月16日 (土)

祇園の青き魚

 一週間前、京都は祇園近くのホテルに泊まっていながら犀星の詩のことを思い出しもしませんでした。

    祇園

  祇園の夜のともしびに
  青き魚さへ泳ぎ出づ
  青き魚さへをどるにや
  加茂川べりのあたたかさ
  飯(いひ)もたべずにわがうたふ

2009年5月14日 (木)

ちょっとメモ

 続稿を書きますと約束していながらそのままになっていることやら、新しく知りえた情報でしかも関連しあっていることがらなど、それらを整理して書きたいと思いながら、手つかずの状態です。

 先日からの本郷西片町話題と、京都話題が重なるところに《上田敏》がいて、気になっています。もともと上田敏は、一葉やハーン(八雲)の関連で興味を持っていたのですが、西片町の上田敏について言えば、敏の実家である乙骨家と田口卯吉との関わり、京都の敏について言えば、室生犀星が訪れた京都の敏旧家跡の探索。。。(岡崎広道三六番地?)

 一葉と、野々宮きく子、安井てつとの、とりわけキリスト教の、関連。偶然、野々宮きく関連で見つけた、一葉と滝廉太郎の〔大音楽会〕での出会い?。そうそう田辺龍子・田辺朔郎(=いとこ)の関連から見えてきた滝廉太郎・滝大吉(=いとこ)。田辺朔郎と滝大吉は、生年も同じですが、工部大学校で同期なのです!

 木下杢太郎日記、とりわけ昭和18、19年の記述。この時期の発言として書き抜いておきたい言説が多い。久内清孝氏も何度か登場する。清光との誤植もあるが。啄木との交流に関わる部分が、関東大震災で消失(焼失?)し、脱落しているのが残念。

 書いているとキリがないので、こま切れの時間と資料を、よりあわせたいと思っています。

2009年5月10日 (日)

京都で出会った二人の建築家

 きのう、きょうは個人的な用件で京都に行ってきました。いくつかこのブログでも報告したいことがあるのですが、忘れないうちに書きとめておきたいことの一つは、京都での“田辺朔郎”と“片山東熊”という明治時代を代表する設計者との出会いでした。出会いと言ってもこの過去の人物に、しかも正面からではなくある遺物(遺跡)を通してのかすかな、しかし偶然の出会いだったことで、印象はとても強いものがありました。

 現在の京都にも深く関わっている「琵琶湖疏水」。この設計者が当時20代前半の田辺朔郎だったのですが、この田辺朔郎は、先日紹介した樋口一葉の萩の舎での学友・田辺龍子(花圃)のいとこにあたる人物なのです。今回はこの「琵琶湖疏水」を訪ねたわけではないのですが――「琵琶湖疏水」探訪は、ぜひやりたいことの一つです――、偶然、琵琶湖疏水の鴨川への放水路を渡ったとき、川端通りのその橋の名をふと見ると「田辺橋」だったのです。こんなところで“田辺”の名前を目にするとは思わなかったので、驚くと同時に、別のいわれのある田辺では?とも疑ったのですが、今帰ってから確認すると間違いなく田辺を顕彰するために名づけられた橋名だったのです。

 今回は、“突然の”京都行きだったのですが、《宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )》という賢治のすばらしいサイトを運営されていて多くのことを教えていただいている浜垣さんに、無理を言って時間をとってもらって、お昼のわずかな時間お会いする機会を持ちました。
 お話をうかがうと同時に、賢治が父政次郎と京都を訪れた際、立ち寄った「中外日報」の跡地を案内してもらったのですが、お会いした場所が東山七条だったので、近くの三十三間堂見学もいっしょにお付き合いいただくことになりました。多くの仏教の尊像を見ることが賢治の仏教世界の深さを再認識する一縁になったのも、偶然とは言え貴重なことがらでした。

 「中外日報と賢治」に関わる話題は省略させてもらうとして、印象的だったのは、この東山七条にある「京都国立博物館」の威容かつ異様ともいえる外観でした。浜垣さんによると「賢治がここを訪れたときこの建物はすでにあったので、賢治も目にしているはず。」とのことでした。この歴史的風格のある建築物を遠目に見ながら、実はかなり胸騒ぎを覚えていたのです。この建物はおそらく明治時代の名のある建築家の手によるものではないのか・・・。

 帰宅してから調べてみてこの建物は、片山東熊によるものだということがわかりました。片山東熊は、ジョサイア・コンドルの弟子で、工部大学校の建築学科第1期生――つまり、辰野金吾、曽禰達蔵らと同期――。 明治の建築物や設計者に関心のある私には、なじみのある大建築家なのです。

 こうして京都で偶然にしかもさりげなく二人の建築家に出会い、この二人がともに偶然とは言え田辺花圃のいとこであること――片山東熊は、田辺朔郎の姉・鏡子と結婚している――にも、私には京都の文化の不思議を思い、帰路についたのでした。

2009年5月 7日 (木)

一葉と廉太郎のいた明治の東京

 樋口一葉が半井桃水に会うきっかけをつくり、一葉にキリスト教を紹介した一人でもあろう野々宮きく子が、東京府高等女学校(M22.4から24.12、在学)を卒業した後、「翌年〔明治25年〕一月から麹町小学校に勤めた」ことを、「一葉全集」の脚注(Vol.3上-66p)で知り、少しあわてました。

 なぜならこの頃、富山から東京にもどった滝廉太郎が転入した小学校が、“麹町小学校”だったからです(5/2の項、参照)。急いで、廉太郎の年譜を繰って、ちょっとがっかりする結果となりました。野々宮菊子の話は、一葉と廉太郎の年譜をならべてどこかで重なることがないか、ずっと眺めていたときに目に飛び込んできた、小さいながらうれしい情報だったからです。

 年譜では、廉太郎は明治21年5月に麹町尋常高等小学校尋常科三年生に転入し、23年3月に尋常科を卒業しているのです。父吉弘は前年に出身地である大分県の大分郡長に赴任していて、廉太郎は祖母ミチと姉リエとともに東京に残っていたのですが、祖母が亡くなり、麹町小学校の高等科に進まずに、大分の家族のもとで大分県尋常師範学校付属小学校の高等科に入学することになるのです。
 野々宮きく子は、廉太郎が大分へ去った翌々年、麹町小学校に先生としてやってきたのです。

 のちに一葉が最後の住処となった本郷区丸山福山町に移ってきた明治27年5月に、廉太郎は大分から音楽学校入学のために従兄弟・大吉のもとに再上京してきます。ここから生涯出会うことのなかった明治の二人の天才が、東京の近距離で、それぞれの最後の創作に向かった時を過ごすことになるのです。

 なお、樋口一葉は滝廉太郎より5年早く生まれ、7年早くこの世を去っています。が、廉太郎が同居し“お兄さん、お姉さん”と慕った滝大吉夫婦(夫婦ともに廉太郎のいとこ)のうち“お姉さん「滝タミ」”は、一葉よりも二歳年上だったことも考えれば、一葉と廉太郎は、姉弟のように明治の時代を生きたと言ってもよいのではないでしょうか。

 そんな一葉と廉太郎を想いながらの、私の本郷街歩きは、いずれ。

2009年5月 6日 (水)

久保田万太郎の語る“霜川”

 いつ書いたかわからない私の手書きの「三島霜川メモ」に、――いつかnetで拾った情報だと記憶するのですが――久保田万太郎の「無理かも……が……」という短文の断片がメモされています。

 “万太郎は、「いやしくも明治から大正にかけての文学史に名まえをとどめた作家たち……とくに、嘗ての時代に、ある程度、活躍し、一応、名声をえたにかかわらず、その後、何んらかの理由で、影がうすれたり、行方を消したり、あるいは若くして死んだりした、不幸な、不運な作家たちの仕事を、この文庫のなかにとり上げてもらえないものだろうか?」として、三島霜川作品を、童話作家以前の小川未明や演劇学者以前の小山内薫などいっしょに挙げている。”

 この「無理かも……が……」という小文は、どうしたら読めるのか、全集に収まっているのだろうか。そもそも久保田万太郎の全集ってあるのだろうか・・・?。
 調べようと思いながら、そしてnetで検索すれば一瞬でわかることなのに、そんなことすらずっと怠ってきました。で、きょう久保田万太郎の命日だということを偶然知った機会に、googleのお世話になりました。

 なんとfoujita kanakoさんが、久保田万太郎全集〈全15巻〉と月報の詳細を、《中央公論社版『久保田万太郎全集』目次》として公表されているではありませんか!。
http://www.ne.jp/asahi/foujita/kanako/carnets/books/kubota-mantaro.html
 foujitaさんのすばらしい書誌を見ていくと、万太郎が、岩波書店の『古典を読もう』という岩波文庫推奨用の小冊子のために書いた短文「無理かも……が……」は、その第15巻〔補遺・雑纂 附年譜〕に収録されてることがわかりました。

 そう言えば、徳田秋声が霜川について書いたエッセイ「旧友霜川氏」のなかで、万太郎の霜川評価についてふれていたことも、今、思い出しました。
 “この間も久保田万太郎氏は、ある酒の席上で、中学時代に霜川氏の小品「スケッチ」を愛読し、それから文学的に学んだことの多いことを話された。”

 久保田万太郎――。私はいくつかの俳句しか作品としては知らないのですが、しかしそれは理屈抜きで大好きな句ばかりなのです。が、明日はとりあえず、「久保田万太郎全集」の第15巻を借りてこよう、一葉と廉太郎の年譜をにらみながら過ごした連休の最後の日に、霜川のことを少しばかり想って眠りにつくことになりました。

2009年5月 4日 (月)

田辺花圃の生誕年についてのメモ(旧暦と新暦の対応)

 先日、このブログのコメントに、――“歌塾「萩の舎」で学んだ一葉の学友を誕生年で見ると、田辺龍子(花圃)が1868年、太田竹子が1870年、樋口夏子(一葉)と伊東夏子が同じ1872年。”――と書きました。
 太田竹子の生誕年は、木下杢太郎側の資料から、田辺龍子(花圃)と伊東夏子のそれは、『樋口一葉と歩く明治・東京』から引用したものです。

 このうち田辺龍子の誕生年について、忘れないうちにメモしておきたいことがあります。田辺龍子(花圃)は、本人の文学活動に加えて、海外へ早くから交渉に出た幕臣・田辺太一の娘で、三宅雪嶺に嫁いだ経歴からも話題の多い人物です。その彼女が1868年生だとすると激動の明治維新の年ですから、いつごろ生まれたのか気になるところです。

 が、きょうの報告は形式的なことがらです。龍子の生まれたのは確認できたところでは、明治元年十二月二十三日。明治維新=1868年という常識的な知識からも、上に書いた龍子の生年1868年には何の問題もないように見えます。しかし、単純にはそう言えないのが、旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦/グレゴリウス暦)の対応です。

 旧暦が行われていた当時の明治元年11月18日が、グレゴリウス暦(G暦)で1868年の大晦日12月31日であり、その翌日、11月19日が、G暦の新年元日(1969年1月1日)となります。このように旧暦と新暦とでは日付は一致しませんし、年があらたまるのも違った日となります。そして、11日18日からさらに一か月ほどたっている龍子の誕生日〔明治元年12月23日〕は、G暦1969年2月4日なのです。
 龍子の生まれた日〔12月23日〕について言えば、明治元年であっても、《1868年ではなく、1969年なのです》。

 江戸時代以前は言うまでもなく、明治時代についてもグレゴリウス暦が実行される前の――“来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候”とされる前日の――明治5年12月2日までは、旧暦と新暦は平均で35日のずれがあり一致しないのです。一致するのは明治6年1月1日以降なのです。
〔明治5年12月2日=1972.12.31、その翌日は明治6年1月1日=1973.01.01〕
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=200312

 なんの偶然か、龍子と同じ旧暦の12月23日に生まれた作家がいます。徳田末雄(秋声)です。彼の場合は、明治4年12月23日で、新暦換算では、1872年2月1日となります。もちろんここでも明治4年=1871年というわけにはいきません。

 話を田辺龍子に戻しましょう。彼女について言えば、net上でもほとんどが生誕年を〔1868年〕としていますが、やはり西暦で表示する場合は、1869年とすべきではないでしょうか。徳田秋声についても、〔明治4年12月23日(1872年2月1日)〕と正確を期したものもありますが、西暦単独表示の場合、〔1871年〕が多く見られるようです。

〔追記〕
 新暦〔G暦〕実施以前に生まれた人々の生誕年(月日)の表記に、こだわるのにはいくつかわけがあるのですが、そのことについては、あらためて書きたいと思います。

2009年5月 3日 (日)

ちょっと金沢

 まず、徳田秋声記念館に向かう。浅野川の「鯉流し」(友禅流しの鯉のぼり版)に多くの人が出ている。《『足跡』と『黴』――“妻”を描く、己れを描く》、いつもながら充実した企画展に心動かされる。(三島霜川との関連ある二作品でもあり、あらためて、いくつかのことをメモしておきたいと思うが、後日。)

 連休とあってか、ひがしの茶屋街にはさらに多くの人が。宇多須神社の祭礼。東山菅原神社に参拝。街角の掲示板に江戸時代の茶屋街の絵図の写しがあり、気になっている「矢の根川」が、茶屋街を斜めに横切り表門のところには橋がかかっているのが描かれている。矢の根川に八幡川という別名。かつての卯辰八幡宮にちなむのだろう。
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20071002

 古書カフェ「あうん堂」さんに立ち寄り。《沢野ひとし「山の時間」展》をちょっとのぞいてみるつもりだった、が、――沢野さんのカット絵はよく目にし好きだが、特別関心が強いわけではない――、独特のトーンの山の絵は不思議な感覚を呼び起こしてくれる。エッセイ本も即売していてのぞいていたらば、沢野さんご本人がこられてイラスト入りのサインをいただくことに。きさくな奥様ともちょっと会話。
 http://www.aun-do.info/news/index.htm

 帰りの列車のなかで、沢野さんのエッセイ集を拾い読み。本に収められているカットもいいが、巻頭の文章からぐんぐん惹きつけられてしまう。こんなすてきな本を書く人だと知っていたら、ドキドキして、あんなに平気でサインなどもらえなかっただろうにと、安心もし残念にも思う。

 “東京から見える山で、いちばん親しみのある山は、やはり富士山である。富士が見えなくて、なんの東京か、である。幼いころから中野で育った僕は、富士山を眺めつつ四季の移り変わりを感じていた。とりわけ冬の寒い朝など、富士山がくっきり見えると、それだけで気持ちがシャンとするようだった。”〔沢野ひろし『休息の山』(山と渓谷社/1994.9)〕

2009年5月 2日 (土)

5月1日、廉太郎一家、富山を去る

 「非職」。この見慣れないことばの意味を知りたいと思いながら、いまだに充分に調べてないままである。辞書には「官吏が地位はそのままで職務だけ免ぜられること。」とあり、さらには「分限処分の一つ」と言われても、よくわからないが、今のことばで言えば「休職」というになるのだろうか。必ずしも本人の失責による懲戒処分的なものとは限らないようである。

 この「非職」の文字を今日も「滝廉太郎」の年譜であらためて目にして、もう少し具体的な意味合いを知りたくなったのだがそれは後日の課題にしようと思う。

 “明治21年(1888)4月24日、〔父〕吉弘、非職を命ぜられる。5月1日、一家は富山を出立。北陸道を経て、5月6日東京着。麹町区上二番町二番地に落ち着き、麹町尋常高等小学校三年生に転入。”

 廉太郎の父は、富山県書記官を「非職」となり、121年前の昨日、滝一家は1年半余生活した富山を離れたのである。

 2週間前に、東京で廉太郎の居住地を番町界隈や西片町に追ったことのことの記録を書こうと思いながらまだ果たしていません。連休中の課題にしたいと思っています。

〔追記〕
 上の年譜は、松本正『大分県先哲叢書 瀧廉太郎』(大分県教育委員会/1995.3)によっています。この本によって、私が「めぐり逢うことばたち」(旧日記)に書いてきた廉太郎関係の記載にのいくつかに、訂正が必要なことがわかりました。そうしたこともおいおい書いていきたいと思います。

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