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2009年4月19日 (日)

本郷街歩き(3)――啄木、杢太郎そして一葉

 私が泊まったのは、太栄館の別館二階、いちばん西側の見晴らしの利く部屋でしたが、啄木がここの三階から見たという富士山はさすがに見えませんでした。そのかわり?、言問通りへ落ち込んでいく細い[新坂]を真上から見る部屋で、夜中にもブレーキをきしませながら急な坂を下りて行く自転車に何度か目を覚まさせられたことでした。

 この「新坂」は、120年前の小説の一節に現在とかなり違ったありさまで登場していました。当時、本郷菊坂の住人であった無名の樋口一葉がはじめて原稿料を得た作品「経つくえ」です。(「甲陽新報」明25〔1892〕.10.18~25)に春日野しか子の名で発表)

 “本郷の森川町とかや神社のうしろ新坂通りに幾構えの生垣ゆい廻せし中、押せば開らく片折戸に香月そのと女名まえの表札をかけて折々もるる琴のしのび音、軒場の梅に鶯はずかしき美音をば春の月夜のおぼろげに聞くばかり、(以下略)”

 文中の「神社」は、今は姿を消してしまった「映世神社」。本多平八郎を祀る森川町の中心にあったこの神社については、この宮跡の五差路を、木村伊兵衛の写真〔本郷森川町〕とともに紹介しました(2008.11.6)。実は、今回、私がこの太栄館に泊まろうと思ったのは、昨年、本郷旧森川町に徳田秋声の遺宅を訪ねた際、この太栄館の玄関先を間近に見るところまで行きながら、足を運ばなかったことの心残りにありました。
 秋声が、森川町の南堺裏に居を構えたのは明治39年〔1906〕初夏。そして啄木が菊坂の赤心館から蓋平館に移ったのが、明治41年〔1908〕9月6日、啄木が発行人として「スバル」創刊〔1909.1〕にかかわったことから、蓋平館には北原白秋や(2)でもふれた木下杢太郎などが通いつめることになります。

 明治から大正への過渡期に新たな文学の兆しが生まれつつあった一つの現場が、現太栄館の蓋平館別荘だったのです。今の新坂には残念ながら「琴のしのび音」「鶯はずかしき美音」こそありませんが、やはり静かな一画でした。
 
〔追記:1〕
 「スバル」の同人として親交をもった啄木と杢太郎には、啄木の死に至る病の発端となった腹膜炎発症以降の「患う者と医学生」としてのつきあいもありました。啄木は、のちに蓋平館から家族と共に移り住んだ本郷区弓町二ノ十八番地の新井方(喜之床)で慢性腹膜炎の診断を受け〔1911.2〕、入院するかどうかなどの相談に太田正雄(杢太郎)を――当時、正雄は白山御殿町一〇九番地の兄の家に同居――訪ねたようなのです。

 人のつながりとは異なもので、樋口一葉と木下杢太郎(太田正雄)の間にも不思議な因縁がありました。正雄の15歳年上の姉たけと一葉(夏子)は友人だったのです、二人が写っている貴重な写真がのこっています。杢太郎は姉からも師・鴎外からも一葉のことを熱心に聴きとっていたのではと想像するのですがどうでしょう。

 18日に紹介した一葉の日記の三日後に、こんな記述があります。

 “〔明治二十六年四月〕二十九日 早朝小石川〔萩の舎の師・中島歌子〕より書状来る。今日のけい古是非参られたしとてなり。支度して行く。伊東〔夏子〕君も参らる。来会者三十余名なりき。(中略)太田竹子君斎藤それがしの妻に成たるそれも来る。西片町に住居するよし。”(下記、コメント欄参照)

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コメント

 歌塾萩の舎で学んだ一葉の学友を誕生年で見ると、田辺龍子(花圃)が1868年、太田竹子が1870年、樋口夏子(一葉)と伊東夏子が同じ1872年。
 この太田竹子について、一葉全集(筑摩/1976)の注は「木下杢太郎の姉に当る。姉の太田錦子とともに萩の舎に学んだ。明治女学校を出て司法省官吏齋藤十一郎に嫁した。」と書いています。木下杢太郎記念館の資料(*)によれば「明治三年(1870)十一月九日生。明治二十六年(1893)四月十一日、山形県羽前国東村山郡横山村(現在の天童市)青柳出身の判事、斉藤十一郎に嫁す。二男二女あり。斉藤十一郎は大正九年(1920)六月十一日没。五十三歳。たけは昭和二十九年(1954)四月二十二日没。八十五歳。」とあります。〔(*)=「木下杢太郎――その生涯と生家と杢太郎碑」(発行年不明)〕
 竹子と斎藤十一郎との結婚は4月11日だったようですから、一葉の日記(4月29日)に「太田竹子君、斎藤それがしの妻に成たる。それも来る。」とあるのは、文字通り結婚直後のことだったのですね。
 なお、太田正雄(杢太郎)は、独逸協会中学入学のため上京した年(1898)以降、白山御殿町の兄の家に移るまで(1902)、西片町!の姉の斎藤家に寄宿していた。 
 斎藤十一郎については、↓。
 http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/019saito%20juishirou%20%20.htm

〔追記:5/5〕
 上に田辺龍子(花圃)の生誕年を〔1868〕と書きましたが、彼女の誕生日が《明治元年十二月二十三日》であることから、〔1868〕ではなく〔1869〕とすべきことについて、5月4日の「田辺龍子(花圃)の生誕年についてのメモ」参照。

斎藤十一郎と太田竹子の縁結びの切っ掛けが分るでしょうか。私は母方の祖先調べで祖父母の仲人が斎藤博士と知り、静岡県伊東市出身の竹子がなぜ山形県出身の斎藤博士と結ばれたか知りたいのです。
母方の祖母は江川太郎左衛門の書記の孫にあたり、祖父は杢太郎の兄で静岡県議会議長を務めた政治家太田賢治郎氏と昵懇の間柄でしたが、杢太郎の実家は関東大震災で菩提寺ともども古記録が流失、同家の出自は不明です。
竹子の姉たちも東京の女学校に学んでいることから、単なる地方素封家ではなく、東京ないしその近郊にルーツがあるのではないかと考えます。
6月頃、テレビ東京の「なんでも鑑定団」に東京都墨田区の太田さんという人が出演、千葉県で名主をしていた先祖が大塩平八郎からの書簡を所蔵していることがわかりました。大坂の人間だった平八郎の知人が千葉にいたことがわかり、この大田さんと杢太郎の実家に血縁がないかどうか知りたいのですが、放送局は個人情報の保護を理由に連絡を取ってくれません。実は祖母が遺言で祖父が大塩平八郎の孫だと言い残したのですが、あまりにも荒唐無稽な話で誰も信じてくれません。
平八郎が大田蜀山人と親しかったことは知られていますが、その蜀山人と懇意だった新楽閑叟のひ孫に祖父の異母姉が嫁いでいます。
杢太郎の実家と大田蜀山人(厳密には一文字違いますが)なり、千葉出身の太田家とのつながりがあれば、祖父と伊東の太田家との交流は平八郎以来のものと証明され、祖母の遺言が裏付けられるのです。

小西様、コメント有り難うございます。はずかしい話ですが、このココログのブログは、パスワードがわからなくなって、最近管理をしていないため気づくのが遅くなりました。夜、帰ってから、あらためて書き込みます。宜しくお願い致します。

「人のつながりとは異なもので・・・」などと本文に書きましたが、人と人との結びつきには、空間や時間を越えた予想外のつながりがある半面、同じ時代・至近距離にいても、お互いを知らないこともあるのですから不思議です。1887年のマルチニク島といえば、八雲ファンの私は、ラフカデォオ・ハーンのことをすぐ想い浮かべるのですが、なんとそこにはポール・ゴーギャンもいたということを、しかもお互いのことを知らなかった(お互いに面識が無かったのか、出会うきっかけがなかったのかは、私にはわかりませんが)ということを、聞いたばかりです。小西さんのコメントを読みながら、つい余計なことを書いてしまいました。
最初から、余談で済みません。斎藤十一郎と太田竹子が縁づいたきっかけについては、思い浮かぶものがありませんが、何か書かれたものがあるか、少し調べてみたいと思います。太田家のことは小西さんの方で、かなり調べておられるようなので、斎藤十一郎のことを調べてみたいと思います。
現在のブログは、投稿者の名前をクリックしたらリンクします。現在のブログは、非公開でコメントが書き込めますので、できましたらメールアドレスを教えてくださればと思います。

書きっぱなしですっかり忘れていました。大変遅くなって失礼しました。お気づきになりましたら、よろしくお願いします。

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