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2009年4月

2009年4月28日 (火)

高成玲子さん、有り難うございました

 高成玲子さんが去る3月26日に亡くなっておられたことを、きょうになって知りました。驚きで言葉を失うなかで、高成さんの思い出や言葉がいくつも湧き出てきて、自失のときを過ごしました。1年ほど前でしょうか、所用で訪れた地元の放送局のエレベータに乗り合わせてお元気なお顔を拝見していたので、ご病気だったということも知らず、高成さんのチャーミングな笑顔と、高成さんがもうこの世におられないという事実が、今も結びつきません。
 
 高成玲子さん――。富山国際大学教授という肩書より、富山八雲会の中心的存在であったということの方が高成さんの今を伝えるには適切なのではないかと思います。
 もっといろんなことをお聴きしておけばよかったと悔やまれるばかりです。といっても、私の方でお顔を一方的に存じ上げているだけで、高成さんとは親しく面談させていただいたことはありませんでした。ラフカディオ・ハーン研究の大先達として、メールで気のおけないお話を何度かさせていただいたにすぎません。

 きっかけは4年前の「富山八雲会」主催の西成彦さんの「海と信仰――水際に立つラフカディオ・ハーン」という講演会でした。西さんの『森のゲリラ 宮沢賢治』を読んで感激していた私は、この講演会に駆けつけたのでした。そしてこの講演会にも深く心動かされた私は、その会の司会をしておられた高成さんに講演の感想と『森のゲリラ 宮沢賢治』について、メールをさしあげたのでした。
 いつでも研究室にお寄りくださいと、おっしゃってくださっていたのに、遠慮しているうちにもう高成さんは、おられなくなってしまわれました。そして、印象深いメールでのお話も、私がパソコンを替えたときにすべて誤って消してしまい、もう読み返すこともできなくなってしまいました。
 
 ハーン没後100年を記念して富山八雲会で発行した記念誌『とやまから 未来に伝えるハーンの心』には、高成さんのよくまとまった「ハーンの生涯」という小伝記があって感想をお送りしたら、資料編の「ハーンの作品解説」と「ハーン年譜」をぜひ読んでください。こちらの方が自信作ですという趣旨のお便りをいただいたことも、なつかしく思い出されます。たしかに、つぼをおさえた作品紹介と年譜はすばらしいもので、ハーンへの愛情と作品の深い読みがおのずと伝わってくるのです。
 先日の東京出張の行き帰りの車中で、宇野邦一さんの『ハーンと八雲』(角川春樹事務所/2009.4)を感心しながら読み、高成さんの感想もおききしたいなぁと思っていたところでした。でもそのときすでに高成さんはこの世のにはおられなかったのです。

 きっと今頃は、高成さんはハーンと照れながら握手をされているような気がします。高成さんのご冥福をお祈りします。有り難うございました。

2009年4月27日 (月)

啄木メモ――横浜から東京生活が

 1908(明治41)年のこの日〔4月27日〕、“文学的運命を極度まで試験する決心”で、函館を発った啄木が海路、郵船三河丸で横浜に着いています。ここから啄木の最後の文学活動が始ります。

 http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/yokohama.html

2009年4月26日 (日)

本郷街歩き(4)――蓋平館メモ

 「本郷街歩き」も、昨日「一週間前の東京(2)」で概要を書いたので、あとは西片町とりわけ滝廉太郎の住居跡訪問についてだけ書くことにして、きょうは「蓋平館」(現・太栄館)についてのメモとします。

 蓋平館といえば石川啄木と、つなげて語れることが多いのですが、ほかにも内田百間や童謡「夕日」の作詞家として知られる葛原しげるが下宿していたことはあまり話題にならないようです。同宿となった葛原しげると内田百間との親しいく交わりについては、「福山誠之館同窓会」のHP中の「誠之館人物誌」↓で知りました。
 http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/kuzuhara-shigeru/kuzuhara-shigeru.htm

 私が啄木にあらためて親しむきっかけとなった朝日文庫の『一握の砂』の編者近藤典彦さんのHPがあり、そこに「『一握の砂』を朝日文庫版で読む」というブログがあることも、偶然「蓋平館+葛原」という組み合わせで検索して、知りました。(この組み合わせで、蓋平館ゆかりの啄木と、啄木ゆかりの「葛原対月」が、ヒットしたためです。)
 http://homepage2.nifty.com/takubokuken/newpage1.html

2009年4月25日 (土)

一週間前の東京(2)

 別項「本郷街歩き」は継続中ですが、先週土曜日の本郷歩きの概要だけメモしておきたいと思います。といっても、一日の行路を十分には覚えていないのです。ですからなおさらのこと、行路順だけでも書きだしておきたいと思います。あくまで私の備忘録です。

 太栄館から秋声宅の前を通り、開店前の万定を横目に見て本郷通りに出、北上、中山道へと左折。まず。西片町教会をめざす。その近くの滝廉太郎旧家跡を訪ねるため。場所特定できず、西片町に入り込み南下。半井桃水邸跡前から、西片公園で「大椎樹」の碑。清水橋を渡り、鳳明館別館、本郷館を見て、本郷通りへ。喫茶店「こゝろ」で休憩。《根津・千駄木下町まつり下町イラストまっぷ》をもらう。2年前、区制60周年記念のもの。 

 東大正門から構内へ。マンホールふたの「東京帝大」の文字を撮っている人がいる。三四郎池で一休み。本郷館をもう一度見たくなり、道を戻る。求道会館の結婚式をのぞき込み、さらに西片町に再入。西片町教会の横にもう一度出て、廉太郎旧家跡をさぐる(この項、別項で)。追分の「高崎屋酒店」前で本郷通りを渡り、農学部のところで右折。西教寺、願行寺前をさらに北上し、漱石の猫の家跡まで。この道は三島霜川にも因む道。戻り道、聖テモテ教会のところで、根津神社つつじ祭り整理役の方から《根津権現かいわい浪漫ちっくマップ》をもらう。西片町に「佐々木信綱」「小松耕輔」居住跡がドットしてあり、正確な位置がわからないもののもう一度、西片町に入り込む。まず上田敏旧家跡?から歴史のありそうな平野宅前をうろうろし、漱石の旧家跡まで。新坂を下り白山通りに出、菊坂に入り込む。

 創業130年の甘味処「ゑちごや」で焼きそば、遅いお昼。《本郷菊坂真砂町人物往来絵図》というマップが貼ってあり、ご主人に声をかけたところ販売所をていねいに教えてもらう。もう訪れるのは時間的には無理だが、弓町の詳細な記載には心が躍る。文京区民センターの真砂市場で、手書きのマップをセットで買い、うれしくて清和公園(右京山跡地)で一休み。鐙坂を降り、一葉の菊坂旧居路地に入り、――なんと「いちは(一葉)」という休み処が菊坂通りにできている!――賢治旧居跡にも素通りながら敬意を表し、「文京ふるさと歴史館」立ち寄り。本郷小学校の前から菊坂に戻り、「金魚坂」の前を通り(この辺りが一葉の通った吉川小学校跡か)、本郷通りへ。
 丸ノ内線「本郷三丁目駅」から東京駅へ。帰路に。

2009年4月24日 (金)

一週間前の東京(1)

 明日土曜日、関東地方はすごい雨模様らしい。先週の土曜日がすばらしい散策日和であったことを思うと、――大げさですが――身の幸を感じます。

 東京に着いたのが少し暑かった先週の木曜日の午後。この日は仕事の訪問先の近辺、麹町界隈を4時頃と仕事をオフになった9時以降、3時間近く歩き回ったでしょうか。明るい時間帯には英国大使館を、夜には滝廉太郎の住居跡を2ヵ所(平河町と麹町)、一葉が訪ねた半井桃水の住居跡(平河町)と、田辺龍子が嫁いだ三宅雪嶺宅跡(番町)を人通りの少ない街筋に探し歩きました。
 金曜日――ちょうど一週間前――は、小雨が落ちる肌寒い日になりましたが、仕事オフ後に(この日は大井町にいたので)、ゼームズ坂に、高村智恵子が入院していたゼームズ坂病院跡の「レモンの碑」を訪ね、土曜日は、本郷散策となった次第です。

 少しずつ、記録を残しておきたいと思っていますが、とりあえず訪ねた先だけをメモしておきました。

2009年4月19日 (日)

本郷街歩き(3)――啄木、杢太郎そして一葉

 私が泊まったのは、太栄館の別館二階、いちばん西側の見晴らしの利く部屋でしたが、啄木がここの三階から見たという富士山はさすがに見えませんでした。そのかわり?、言問通りへ落ち込んでいく細い[新坂]を真上から見る部屋で、夜中にもブレーキをきしませながら急な坂を下りて行く自転車に何度か目を覚まさせられたことでした。

 この「新坂」は、120年前の小説の一節に現在とかなり違ったありさまで登場していました。当時、本郷菊坂の住人であった無名の樋口一葉がはじめて原稿料を得た作品「経つくえ」です。(「甲陽新報」明25〔1892〕.10.18~25)に春日野しか子の名で発表)

 “本郷の森川町とかや神社のうしろ新坂通りに幾構えの生垣ゆい廻せし中、押せば開らく片折戸に香月そのと女名まえの表札をかけて折々もるる琴のしのび音、軒場の梅に鶯はずかしき美音をば春の月夜のおぼろげに聞くばかり、(以下略)”

 文中の「神社」は、今は姿を消してしまった「映世神社」。本多平八郎を祀る森川町の中心にあったこの神社については、この宮跡の五差路を、木村伊兵衛の写真〔本郷森川町〕とともに紹介しました(2008.11.6)。実は、今回、私がこの太栄館に泊まろうと思ったのは、昨年、本郷旧森川町に徳田秋声の遺宅を訪ねた際、この太栄館の玄関先を間近に見るところまで行きながら、足を運ばなかったことの心残りにありました。
 秋声が、森川町の南堺裏に居を構えたのは明治39年〔1906〕初夏。そして啄木が菊坂の赤心館から蓋平館に移ったのが、明治41年〔1908〕9月6日、啄木が発行人として「スバル」創刊〔1909.1〕にかかわったことから、蓋平館には北原白秋や(2)でもふれた木下杢太郎などが通いつめることになります。

 明治から大正への過渡期に新たな文学の兆しが生まれつつあった一つの現場が、現太栄館の蓋平館別荘だったのです。今の新坂には残念ながら「琴のしのび音」「鶯はずかしき美音」こそありませんが、やはり静かな一画でした。
 
〔追記:1〕
 「スバル」の同人として親交をもった啄木と杢太郎には、啄木の死に至る病の発端となった腹膜炎発症以降の「患う者と医学生」としてのつきあいもありました。啄木は、のちに蓋平館から家族と共に移り住んだ本郷区弓町二ノ十八番地の新井方(喜之床)で慢性腹膜炎の診断を受け〔1911.2〕、入院するかどうかなどの相談に太田正雄(杢太郎)を――当時、正雄は白山御殿町一〇九番地の兄の家に同居――訪ねたようなのです。

 人のつながりとは異なもので、樋口一葉と木下杢太郎(太田正雄)の間にも不思議な因縁がありました。正雄の15歳年上の姉たけと一葉(夏子)は友人だったのです、二人が写っている貴重な写真がのこっています。杢太郎は姉からも師・鴎外からも一葉のことを熱心に聴きとっていたのではと想像するのですがどうでしょう。

 18日に紹介した一葉の日記の三日後に、こんな記述があります。

 “〔明治二十六年四月〕二十九日 早朝小石川〔萩の舎の師・中島歌子〕より書状来る。今日のけい古是非参られたしとてなり。支度して行く。伊東〔夏子〕君も参らる。来会者三十余名なりき。(中略)太田竹子君斎藤それがしの妻に成たるそれも来る。西片町に住居するよし。”(下記、コメント欄参照)

本郷街歩き(2)――「ローマ字日記」

 細かなことを書きだすときりがなさそうなので、「街歩き記」もエピソード的なものにとどめることにしようと思う。それにしても帰宅した今になって返す返すも残念に思われることが“二つ”ある。

 その一つが、せっかく蓋平館の後をうけた旅館・太栄館に泊まることを数日前に決めていながら、最近親しんでいた啄木年譜に目を通すことなく、東京に発ってしまったこと。先週は急に東京出張が決まったこともあり繁忙でニュースすら見ておらず、紀尾井町付近の大事故についてすら知らずにいて、仕事で寄った平河町のある事務所で会ったIさんに驚かれてしまった次第なのである。余談はともかく、啄木がいつからいつまで蓋平館別館に滞在していたのか、調べる心の余裕がなかったのである。
 啄木は、ちょうど100年前のこの4月に!、森川町新坂の蓋平館別館で、あの「ローマ字日記」を書いていたのだ。

 もう一つは、きのう何度も行ったり来たりした西片町に、晩年の木下杢太郎が住んでいたこと。『百花譜』の花々も主としてこの西片町の自宅で描かれたものなのだ。これも先日来親しんでいる杢太郎年譜の「昭和12年(1937)」の項に、「五月、東京帝大医学部教授として東京に転任。本郷西片町十はノ八に住む。」とちゃんと明記されているのだが、もうろうとした頭にはインプットされていなかったのだ。
 もちろんこの旧地番の「西片町十はノ八」が現在地のどこにあたるのかを、手元の資料で確認することは今もできないのだが(だいたいの推測は今、できていますが〔追記1:西片2-4-31だと思われます〕)。

2009年4月18日 (土)

本郷街歩き(1)――阿部邸より本多邸をへて

 夕方より邦と共に散歩なす。
 田町より丸山にのぼり阿部邸より本多邸をへて、本郷通りに勧工場二ヶ処みる。
 十一時半寝る。

 明治26年4月の樋口一葉の日記の一部である(1行目の「邦」とは妹の邦子)。この日記を意識したわけではないのですが、本郷の備後福山藩阿部藩邸と三河岡崎藩本多藩邸の跡地にそれぞれ開かれた西片町と森川町一帯を、一日かけて歩きました。といっても、同じ個所を何度も行ったり来たりしていただけで名所旧跡をうまく巡り歩いたわけではありません。

 「本郷を歩こう」とだけ決めていて、その訪問地もまったく決めてなかったし、それゆえ下調べも皆無という“行きあたりばったり”の街歩きでしたが、太栄館をスタートに――昨晩、啄木ゆかりの蓋平館別荘跡のこの旅館に泊まったのです!――まったく予定もしていなかった「三四郎池」を訪ねたり、右京山近辺から鐙坂を歩いたりと7時間近く歩いたでしょうか。本郷という土地柄ゆえ、漱石、一葉ゆかりの地も多かったのですが、ちょっと意地になってその地を探し歩いたのは滝廉太郎の西片町の旧居跡でした。

 16日深夜の平河町、番町歩き、17日の本郷歩きの詳細はあす以降の報告にしたいと思います。

2009年4月12日 (日)

久内清孝氏の命日

 今日4月12日は、先日来登場いただいている植物学者・久内清孝氏の命日になります。年齢的には牧野富太郎の20年ほどの後輩になり、牧野と並ぶほどの植物分類学者だったのではと思いますが、牧野と違い著書をわずか2冊――『植物採集と標本製作法』(本田正次と共著/1931)『帰化植物』(1950)――しか残していないことが、一般の知名度も学史上の評価をも低いものにしているのではないでしょうか。

 漱石宛ての手紙が残っているために漱石の書簡集にも久内清孝の名は載りながら、最近の漱石全集でさえ久内清孝に《不詳》の二文字しか与えていませんし、木下杢太郎の『百花譜』の執筆の大きな力になっていながら岩波文庫の解説に久内清孝の名前は登場していないのです。
 もちろんこれら、とりわけ若き日の漱石との交流は、植物学者久内の本領とは関わりのないことがらですが、植物学エリアでも久内の業績が評価されず、今では忘れられた存在になっていることが私などの門外漢にもとても残念なことです。
 折を見て、これからも久内氏のことを――植物学者としての復権に私は関われませんが、氏の文人としての側面の掘り起こしなら少しはできそうです――書いていきたいと思っています。

 今さらながらですが、氏の「著作集」を出すことは学問的に意義のないことなのでしょうか。

 *久内清孝 1884.03.10~1981.04.12

2009年4月11日 (土)

賢治はどこに生まれたのか(1)

 あれっ?と思い、気になって調べてみたら、不思議な事態になっていました。
 宮澤賢治の生誕地は、どこなのでしょう。

 まず気になったのは最近刊行されたPHP文庫『銀河鉄道の夜・風の又三郎・セロ弾きのゴーシュ』の「宮沢賢治・略年譜」。PHP文庫に「賢治童話集」が加わるという“えっ”と驚くようなことがらについては、その内容とあわせてあらためて書きたいと思うのですが、この童話集に付された澤口たまみさんの特徴的な「略年譜」を読み直していて「あれっ」と思ったのです。

 澤口さんの年譜は、賢治の出生を「八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町大字里川口字川口町(現花巻市豊沢町)に、質・古着商を営む宮沢家の長男として生まれる。」と、簡素かつ克明に書きだしてくださっていて、その生誕地にあらためて目がとまりました。「《稗貫郡花巻町》?、えっ、賢治は花巻町の生まれなの?・・・」

 私のこの疑義には、説明が必要でしょうね。賢治と言えば、当然「花巻」なのですから。これは、町村合併にからむ町村名の変更に関わっています。つい数年前にも市町村の大合併がありましたが、明治時代の中頃、1888年(明22)にも「市制・町村制」が施行され全国で町村の大合併が断行されました。岩手県の現花巻市周辺だけに限って取り上げると、このとき、花巻村、北万丁目村、高木村の一部が合併して「稗貫郡花巻町」、里川口村、南万丁目村が合併して「稗貫郡花巻川口町」ができたのです(*1)。

 つまり賢治が生まれた1896年(明29)時点では、《花巻川口町》と《花巻町》があったのです。問題は、ここからです。賢治の生まれた〔里川口川口町〕地区は、上の合併の経緯でもわかるように、――里川口村が、南万丁目村と対等?合併でできた――《花巻川口町》であって《花巻町》ではないのです。
 なお、この《花巻川口町》と《花巻町》は、1929年(昭4)に「(新)花巻町」に統合されます。賢治が1929年以後に生まれたのであれば、「稗貫郡〔花巻町〕大字里川口字川口町」生まれでいいのですが、1896年生まれた賢治は疑いもなく、《稗貫郡〔花巻川口町〕大字里川口字川口町》生まれでなければならないのです!。

 ・・・と、確信をもって言い切りたいところだったのですが、念のためにと思って取り出した――厳密な考証を経ていると考えられる――『新・宮澤賢治語彙辞典』(1999.7)には、驚くべき記述があり、困惑してしまいました。
 
 なんと、『新・宮澤賢治語彙辞典』の年譜には、賢治の生誕地を、《稗貫郡里川口村川口町三〇三番地》と記載しているのです。上に書いたように、賢治が生まれたのは町村制施行後であり、《里川口村》は、《花巻川口町》の大字となって、すでに行政村名としては消滅しているはずなのです。

 この謎は、どう解いたらいいのでしょうか。手元にあるこれも信頼度の高い年譜を期待をもって開いてみて、混迷はいっそう深まることになるのです。(続く)

2009年4月 5日 (日)

宮崎郁雨、生まれる

 このブログにはまったく取り上げていませんが、2月頃から石川啄木の『一握の砂』を幾度も幾度も読み返しています。自然と啄木の略伝や年譜にも目を通す機会があり、《宮崎郁雨》の名前とも親しくなりました。函館で出会って以来、啄木を物心ともに支えた郁雨と啄木の交わりのあれこれについては、ここではふれませんが、今日はその“郁雨(宮崎大四郎)”の生まれた日です。

 郁雨が啄木を偲んで詠った歌のいくつかを紹介しておきます。 

   啄木と郁雨とむかし酒のみし 間借の家のあとのすしやかな
   潮かをる立待岬の崖の際 玫瑰(はまなす)咲けり啄木の墓
   唯一のわれの遺業となるならむ 啄木の墓を撫でてさびしむ

 *宮崎郁雨    1885.04.05~1962.03.29
 *石川啄木  1886.02.20~1912.04.13
 *橘 智惠子 1889.06.15~1922.11.01

 なお、上に名前のあげておいた橘智恵子も啄木が北海道で出会った“忘れがたき人人”の一人ですが、宮崎家も橘家も北陸から北海道に渡った人々であること――宮崎は新潟県、橘は富山県――、橘の生家のりんご栽培は、津田仙との関わりがあることを付記しておいて、いずれ語りたいと思います。

〔追記〕
 宮崎郁雨の詳しい紹介が↓にあります。
 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/miyazaki_dai.htm

〔追記:2〕
 津田仙については、下記拙日記も参照くださると幸いです。
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20081226
  http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20050906

〔追記:3〕
 100年前の今日〔1909.4.5〕、宮沢賢治が盛岡中学校に入学しています。なお、石川一(はじめ:啄木)は、賢治より10歳半ほど年上ですが、盛岡中学校〔正確には、盛岡尋常中学校。1899に盛岡中学校〕に入学したのは、111年前の1898.4.25のことです

2009年4月 4日 (土)

わが家のハナミズキ

 ハナミズキの花芽がほころび始めました。

 昨春、知人に植えてもらったアメリカハナミズキ。どうも根付きが良くなかったのか土質が合わなかったのか、夏には根もとから葉が枯れて来てあわてたのですが、秋口に新芽が出てきてほっとしました。そして、ハナミズキ特有のミニ玉ねぎ形の花芽をつけて冬をこすことになりました。
 そのハナミズキの花芽が少し開き始めているのです。実は、この花芽もあきらかに枯れてしまっているものがかなりあり、心配していたのです。

 わが家で、ハナミズキの花が見られるなんて、なんて幸せなことでしょう。そう言えば、カツラの細枝に赤みがつき、ケヤキも樹によっては芽吹きの気配があります。春は、たしかにここにとどいているようです。

2009年4月 3日 (金)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(3)

 正直なところをいいますと、数か月前まで木下杢太郎の『百花譜』のことを私はまったく知りませんでした。書店の岩波文庫の棚でこの本を見つけても、さほど気にもとめず手にとってすぐ書棚に戻してしまった程度のものだったのです。そんな私がではなぜ今こんな「久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって」などという、話題でものを書いているのか・・・。自分でも不思議なのですが、夏目漱石と久内清孝をつなぐ何かを見つけようと手にした『久内清孝先生追悼集』に掲載の写真に「木下杢太郎」の名を見かけたのがそもそもの始まりなのです。
 といっても上に書いたように『百花譜』のことさえ知らなかった私は、そのときはその写真提供者の石崎達さんの追悼文をよく読むこともせず、いろんな方の書かれた追悼文を読み散らかしていただけなのです。ただ無意識のうちにも木下杢太郎のことが気になっていたのでしょう、随筆「すかんぽ」を読んで、急かされるような思いで『百花譜』を買い求めたのです。そしてそこに飾ることもなく展げられていた杢太郎の死に向けての写生という営みに心動かされて、私の杢太郎追っかけが始まり、そこでループの結節点である“久内氏”にまた出会ったのです。
 それ以後のことは先日来、縷々書いたとおりです。
 (以下、『久内清孝先生追悼集』中の石崎達氏の寄稿文から)

    ━━・・・・・・・‥‥……━━

 “私は大学で太田正雄先生を中心に時習会という文化研究会をやっていたので、太田先生の要請で植物採集会をやることになり、久内先生のご指導をねがった。これが久内先生と太田先生(木下木太郎)との交際の始めで、両先生はすぐ意気投合されて親交を深められたようである。太田先生は最後まで植物写生を続けられて、現在「百花図譜」(岩波書店)として残されているが、学生達の不勉強をさしおいて太田先生はたちまち植物分類学のコツを体得されて、その文学的記述だけでなく植物の写生そのものも立派である。ここまで指導されたのは久内先生だったことは知る人が少ないと思う。学生をぬきにして大学でよく会われたようでもある。私の手元にその採集会のときの写真がまだ残っている。久内先生の博学はすでに木下杢太郎のすべてを知り尽くしていたようである。
 戦争が終わって復員してみると、久内先生はご健在で安心したが、太田先生はすでに亡くなられていた。久内先生が太田先生の百花図譜を何とかするように私に言われたのもこの頃であった。”

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