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2009年3月

2009年3月30日 (月)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(2)

 植物学者・久内清孝と作家・木下杢太郎の間に交流があり、杢太郎が戦時下で死の直前まで描き続けた植物の写生画集『百花譜』に久内がなんらかの形で関わっていたのではないか?。ここ数ヶ月、この疑問が頭を去らなかったのですが、昨日紹介した『目で見る木下杢太郎』(1981)と『久内清孝先生追悼集』(1982)の両書にともに収められていた「一枚の写真」がきっかけで、いろんなことがはっきりしてきました。
 この辺りのことを両書を引用しながら、紹介していきたいと思います。

 医学者・太田正雄(作家としては木下杢太郎)は、1926年(大15)年以来約10年間、東北帝国大学医学部皮膚科の教授を勤めた後、1937年東京帝国大学の医学部皮膚科に移り、教授として伝染病研究所などで研究教育に携わります。太田は、正規の授業のほかにも東北帝大では「森鴎外の会」、東京帝大では「時習会」という読書会を学生たちといっしょにひらいて学生と広い学びの場を持ちます。この東大寺代の「時習会」に久内氏も頻繁に参加することになるのです。
 以下、『目で見る木下杢太郎』の「東大教授時代」からの引用です。

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 1937(昭和14)年5月25日の日記に、「学生の『時習会』。久内氏を聘し、植物採集の事につき聴聞。」とあり、5月28の日記には、「稲田登戸に植物採集。久内氏教導す」とある。
 ここにある『時習会』とは、東北大の『鴎外の会』のように、杢太郎の指導する東大医学生の読書会であった。

 曽根正蔵氏によると「『時習会』では最初は論語を読み、次いでプラトンの饗宴を独逸語訳で、更にゲオルグ・ジンメルの論文等、主として西欧古典が選ばれた。…この会に対する先生の真剣さは非常のもので、いつも相当の準備をして居られた。しかもそれぞれの専門家を招待して意見を聴き討論する。(中略)また春秋の候の日曜日にはしばしば郊外に植物採集に出かけた。この時はいつも久内清孝先生が同行されて、非常に楽しく植物の勉強をした。」

2009年3月29日 (日)

「犀星忌」

 金沢市雨宝院で、「犀星忌」(犀星の命日は3月26日)。雨宝院の高山住職からご案内をいただき出席させていただきました。

 心にしまっておきたいこともあり、報告は割愛させていただきます。

2009年3月28日 (土)

久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(1)

 古書店にたのんであった『目で見る木下杢太郎』(1981)が届きました。少し古い本ですが、書名の通りアルバム形式のもので、伊東市にある木下杢太郎記念館が発行した「木下杢太郎入門」ともいうべき整った本です。
 装丁にも杢太郎の絵が使ってあるこの本のページをぱらぱらと繰っていたとき、一枚の見覚えのある写真が目に飛び込んできたのです。東大医学部の教授であった太田正雄(木下杢太郎)と学生たちが立ち並んだ写真ですが、なんとも特徴的なのは、その写真の真ん中に、タバコを手にした不思議な人物が、飄然と立っているのです。

 “時習会のメンバーと植物採集に行った”と説明のある写真の真ん中に写っているのが、これから話題にしようとしている「久内清孝氏」であり、その横に少し離れて凛として立っているのが、久内氏を招いた太田正雄教授なのです。
 当時、文壇からは遠ざかっていた詩人・木下杢太郎が、医学者・太田正雄として植物学者久内清孝と出会うことによって、その詩心と絵心に再び灯をともされ、八百余枚に及ぶ杢太郎の晩年の植物スケッチ(「『百花譜』」が書かれることになったのではないか・・・。とすれば、二人の人生の交錯は、いつどのように始まり、その交わりはどのようなものだったのかが、ますます知りたくなってきます。

 『久内清孝先生追悼集』(1982)に、やはり、杢太郎こと太田正雄と久内清孝の写った「時習会」の写真はありました。その回顧写真の提供者であり、追悼文の寄稿者でもある石崎達氏――1982当時アレルギー治療研究の第一人者であった氏の若き姿が、久内氏の横に写り込んでいます――が、そこで生前の太田正雄と久内清孝の出会いの一端を語っており、『百花譜』の成立について思いもかけぬことがらを、書いていたのです。
 それは、杢太郎の最後のエッセイ「すかんぽ」に、かすかに示唆されている二人の出会いをじゅうぶんに補ってくれるものでした。

2009年3月25日 (水)

ほぼ折れかけていた心が、さらに折れた。

 WBC、侍ジャパン(正直なところこの言葉はなじめないが…)、イチロー。

 3/19の13打席ぶりのヒット。この日のイチローのことばを、書きとめておきます。

 “バントの失敗で、ほぼ折れかけていた心が、さらに折れた。”――“ほぼ折れかけていた心を、ギリギリでつなぎ止めた。”

2009年3月23日 (月)

きょうもメモ。

 きょうもメモ。

 昨日、「雨降り花」について書いた際、「スプリング・エフェメラル」にもふれたのですが、この「スプリング・エフェメラル」については、実はばくぜんとしたイメージしか持っていませんでした。きょう空き時間に少し調べてみていろんなことを知りました。そんなことをあらためて書く機会があればと思います。「スプリング・エフェメラル」と「雨降り花」は通底するものがあるようです。

 きのうは、戒能通孝さんの命日でした。先日(3/17)、岩波新書『小繋事件』のことを書きましたが、この本を読み直しながら今なお伝わってくる戒能さんの法的正義へのひたむきな思いに心を揺さぶられています。

2009年3月22日 (日)

「雨降り花」小考

 「雨降り花」という語に初めて出逢ったのは、日塔貞子さんの詩「美しい春の来る村」でした。詩の一部を紹介します。

   明るく谷間をうずめて 光のそよぐように
   雨ふり花や堅香子の花の咲く
   静かな山の村があるのだという
   美しい春の来る村があるのだという

    (中略)

   もうじきに 雨ふり花や堅香子の花は
   あるがままに谷間をうずめて咲くだろう
   美しい春の来る村に咲きあふれるだろう
   私たちの希いにも明るい光を放って咲くだろう

と、この詩では「雨ふり花」と「堅香子(かたかご)」が一緒に詠われています。

 「雨降り花」がいったいどんな花なのか、興味津津で調べたことを、昨年、日塔貞子の詩を教えていただいた桜桃花会の皆さんのブログ「雪に燃える花」に書きこませていただいたのですが(*1)、先日、宮澤賢治の詩に詠みこまれた自然を見事な写真とともに取りあげておられるnenemuさんのブログ「イーハトーブ・ガーデン」で、カタクリに続いて日塔貞子が雨降り花と詠んだ花々が紹介されていました(*2)。

 *1)
 http://outoukakai.exblog.jp/7799208/
 *2)
 http://nenemu8921.exblog.jp/11135466/
 http://nenemu8921.exblog.jp/11144379/

 そこであらためて、「雨降り花」について、愚考してみた一応の結論を、参考までに書いておきます。

    ━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━

 梅雨期に開花する花々の一群(アジサイ、ホタルブクロなど。ヒルガオもここに含めてもいいでしょうか)も、「雨降り花」と呼ばれていますが、春先に咲く可憐な花々(アズマイチゲ、キクザキイチゲやイチリンソウなどのキンポウゲ科イチリンソウ属の花や同じくキンポウゲ科のセツブンソウやケシ科キケマン属のエゾエンゴサクの仲間など)を「雨降り花」と呼ぶのがこの語の古い用い方のようです。
 “この花を摘むと雨が降る”という言い伝え(禁忌伝承)の裏には、厳しい冬を乗り越えて芽吹いた生命へのいたわりを読みとることもできそうですが、本来の語義は、「雪が雨に替わる頃に咲きだす花」ではないかと思われます。いずれにせよ、春の雨のやさしさを想う時、スプリングエフェメラル(Spring ephemeral)という語にどこか通づるものを感じます。

2009年3月20日 (金)

「越中八尾おわら踊り」と「金沢ひがしの茶屋」

 越中八尾のおわら風の盆。「四季の踊り」と呼ばれる現在のおわらの踊り(新踊り)が、若柳吉三郎の振り付けであることはご存じの方もあるかも知れません。が、この「四季の踊り」の誕生が、金沢のひがし茶屋街(金沢市東山)と結びついていたことを、ひがし茶屋街での「八尾おわら流し」(4月11日開催)の案内文で初めて知りました。そのまま、書き写しておきます。

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 “哀愁溢れる胡弓の音色にあわせ、いにしえより踊り継がれる「越中八尾おわら踊り」。中でも「女踊り(四季の踊り)」のルーツは金沢・ひがしの茶屋にあるという。
 80余年前、四高(現金沢大学)医学生だった八尾出身の川崎順二氏は、度々ひがしの茶屋を訪れ、芸妓たちの艶やかな舞いとお酒に酔いしれていた。ひがしの踊りの流派は若柳流であることから、昭和4年、川崎氏の伝(つて)で、若柳吉三郎を紹介。若柳氏は、40日間にわたる八尾滞在で「女踊り(四季の踊り)」の振付を完成させたのである。また、ひがしの芸妓も金沢から駆け付け、八尾の人々に熱心に振付を指導したという。女踊りのたおやかで上品な身のこなしは、まさに、ひがしの茶屋を源流とするものなのです。”

(追記)
 ・川崎順二 八尾東町の開業医で「おわら中興の祖」といわれる。医院跡は、現在「八尾おわら資料館」。
  1898.03.14~1971.11.13
  川崎順二氏についてはあらためて紹介する機会をもちたいと思います。

 ・おわらと若柳流については、風組さんのHPの詳細な紹介があります。
 http://homepage3.nifty.com/kazegumi/dance.html

「一笑」→「秋声記念館」→「あうん堂」

 きょうは、金沢へ逃避行。

 ひがし茶屋街の茶房“一笑”でゆったりくつろぐ。江戸期の俳人、「一笑」の名をつけた日本茶の茶房である。
 芭蕉を金沢へ迎えることを楽しみにしていた一笑だが、芭蕉が訪れたときすでにこの世の人でなかったことは、

“一笑といふ者は、この道に好ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、その追善を催すに、

 塚も動けわが泣く声は秋の風 ”

という芭蕉の「おくのほそみち」でご存じの方も多いと思います。
 実は、この店にはいるのは初めて。この茶屋街にくるときはいつも“ゴーシュ”に立ち寄るのですが、きょうは時間が早くてまだ開店していなかったこともあり、恐る恐る入ってみました。お茶屋の趣を残した二階にはなんと俳句関係の本がたくさん書棚に架してあって思わず何冊も手にとって拾い読みをし、掛け軸に見入り、階下で加賀棒茶と抹茶ロールを堪能しました。

 徳田秋聲記念館(「秋聲の本で辿る――大正・昭和のモダンブックデザイン――」展)で秋声本の多くの装丁を楽しみ、あうん堂さんに寄り(出会った本については、いずれ書く機会があるでしょう)、許された時間をオーバーして、大急ぎで杏(あんず)の花を目にして、帰路につきました。

 浅野川界隈のやさしさは、こころにいい。

(追記)
 秋声記念館の企画展では、とりわけ関心のある広川松五郎が装丁した『犠牲』(1917)と『灰燼』(1922)は、目を惹くものがありました(『犠牲』には、これも松五郎装丁の『春と修羅』(1924)につながるアザミが!。それよりも『灰燼』の装画がいい!)。   http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/shusei/kikaku/index.htm
 また、思いがけず一穂さん(秋声の子息徳田一穂氏)のエッセイ『秋聲と東京回顧――森川町界隈』(2008.11/日本古書通信社)が入手できて、気持ちほんわか。池谷伊佐夫さんの絵がいいのです。
 この本の存在を教えていただいたfoujitaさんのブログ↓で、絵の雰囲気を味わってください。実際の本は紙質とあいまってもっとやわらかい雰囲気です。
 http://d.hatena.ne.jp/foujita/20081205

2009年3月18日 (水)

ミチタネツケバナを摘む

 きょうもメモのみ。

 『イーハトーブ温泉学』、こま切れの時間の中で読み次いでいます。

 《ミチタネツケバナ》。この帰化植物、なんと驚いたことに平成時代になって広まった帰化植物のようです。ここ数年、この小花を意識のどこかに置きながら、眺めることも手にとることもなく過してきたことが、――説明しづらい気持ですが――とても残念に思えてきます。
 「タネツケバナ(種漬花)」の語源については、『柳宗民の雑草ノオト』の説明を引用すれば、“ちょうどこの花時が、発芽をよくするために、稲の種籾を水に漬ける時期に合致するからだという。いかにも、稲作国のわが国らしい名の付けようだ。”ということで、農業のTさんに確認する機会をもちたい。

 タネツケバナ:Cardamine scutata
 ミチタネツケバナ:Cardamine hirsuta

 ※自分の備忘用に確認しながらメモしておくと、柳宗悦氏の奥さんが先日紹介したアルト歌手柳兼子さん。二人のご長男が工業デザイナーの柳宗理氏、ご次男が美術史家の柳宗玄氏、ご三男が園芸家の柳宗民氏となる。

 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社――「日本」と「天皇」の誕生』(2009.3)
 この本を読める時間はいつになったらできるか・・・。

2009年3月16日 (月)

賢治と小繋の農民たち

 書きたいことがいくつかあるのですが、時間がないので走り書きです。

 先日、3月10日は植物学者の久内清孝さんの誕生日(生誕125年)でした。実はこの日付については、異なった日が誕生日と書かれたものがあり、その辺りのことも書いておこうと思いながら、その際に一緒に話題にしようと思った久内清孝と木下杢太郎の出会いのことが準備不足で書けず、あらためて後日の課題としました。

 今年、生誕100年を迎える文人で、私が多少とも作品にふれた斎藤史(1909.02.14~2002.04.26)、大岡昇平(1909.03.06~1988.12.25)、滝沢克己(1909.03.08~1984.06.26)ら諸氏のことをそれぞれの誕生日に一言でも書こうと思いながら、これも見送りました。とりわけ忘れられがちな思想家・滝沢克己のことは書いておきたかったのですが、これもいずれ。
 
 『イーハトーブ温泉学』に触発されて岩手の山野に思いを巡らしていて、ふっとこれも岩手の山村・小繋のことが思い起こされて、急いで岩波新書『小繋事件』をさがしだしました。
 小繋村の入会山(いりあいやま)であった小繋山の所有名義が村の旦那(地頭)・立花喜藤太から村外の柵山梅八ら三人の共有に変わったのが、1897(明30)年。これが入会紛争の起点であったわけではないが、村民の生活の糧の山であった小繋の山が、第三者の経済的利害にさらされることになったその起点の年が、賢治の生年の翌年であること。この小繋山の一部を陸軍省の軍馬補充部に売り付け利を稼ごうとした村外者たちの利害と村民の生活が鋭角的に対立し、第一次小繋訴訟が始まったのが、1917(大6)。この訴訟が提訴され争われた場が当時、高等農林学校の学生であった賢治のいた盛岡の地方裁判所だったことも、何の因果なのだろう。もちろん賢治は当時、入会紛争などというものにまったく関心がなかったであろうが、賢治が土質調査に歩いた山々はじつはほとんどが農民の入会山であったことは銘記されていいことだと私には思えるのです。
 そして農民の生活を保障するはずの「入会権」が認定されず、なんと15年かかったこの第一次訴訟の第一審が盛岡地裁で原告敗訴に終わったのが、1932(昭7)年。晩年、農民の生と関わり苦闘した賢治の死の前年なのです。

 賢治の生まるごとが、小繋村の農民の入会紛争の日々と重なっていたという事実を、――ここでは十分に書けませんが、小繋村の田中正造とも言うべき小堀喜代七のこともあわせて――自分なりに咀嚼してみたいと思っています。

2009年3月14日 (土)

詩人・日塔貞子の没後60年

 きょうは詩人・日塔貞子の没後60年の命日になります。その詩は、「人生でもっとも多感な時期に結核性関節炎という病と闘いながら、二十八歳の生涯を閉じるまで左手で書き綴った魂の詩」(*)。貞子の紹介をかねて『雪に燃える花 日塔貞子の生涯』(1972/2007)という著書のある安達徹さんが『山形県大百科事典』(1983)に執筆された「日塔貞子」の項を、書き写しておきます(文中〔山形県〕を補いました)。

(*=『私の墓は 日塔貞子詩集』、この詩集を再刊した桜桃花会の皆さんによる「あとがき」より。)

 ・日塔貞子(にっとう・さだこ)  1920.12.14~1949.03.14

  ━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━

 “1920(大正9)~1949(昭和24)。詩人。〔山形県〕西村山郡河北町西里、逸見誠一の長女。父母の離別により祖父母が養育。十八歳で左膝関節炎、のちに右手首も病み、療養生活のなかで吉村貞司らの影響をうけ、左手で詩や童話を書きつづる。その後、四季派の詩人・日塔聡を知り、西山村郡西川町岩根沢、水沢でともに生活を送る。没後、詩集『私の墓は』刊行。死を背景にした作品はとぎすまされた言葉で祈りと愛の透徹した世界を描き出し、大きな反響をよんだ。”

2009年3月13日 (金)

『イーハトーブ温泉学』

 『イーハトーブ温泉学』(岡村民夫/みすず書房/2008.7)。

 昨年、発売直後に金沢の書店で見かけ食指がうごいたのですが、さまざまな理由で放念。きょう別の書店で40冊ほどの賢治論の中の一冊として再会・・・という次第です。
 読みかけですが、「温泉」という視角から賢治に迫る斬新さと、そこから筆者の見通し得たものの広さ深さに、久しぶりに読みごたえのある賢治論に出会った気がしています。
(実は、強風のためJR線がストップし、便宜的に乗せてもらった特急列車の、しかし動かない3時間の車中でわくわくしながら読みました。)

 内容をていねいに紹介する根気がないので、また本論から離れた話しになってしまうのですが、ちょうど許された時間で読み進んだところ――「東の軽便鉄道、西の電車」の節――で、花巻電気株式会社の社長として、先日来気になっていた「菊池忠太郎」の名前が登場しています。この菊池という人物についてもより踏み込んだ関説があることを期待しつつ、続きは明日にしたいと思います。

50000アクセスで寸考

 気がついたらアクセス数が50000回を超えていました。現在、最初に始めた単純な日記形式のものと昨年の夏から始めたこのブログ形式のものと、同じ内容のもの並行して書いているのですが(個人的には従来の単純な形が好きなので)、旧タイプのものが50000アクセスになったのです。
 *旧タイプのもの:http://www3.diary.ne.jp/user/325457/

 今、あらためて書くことも思いつかないのですが、こうした雑文を書き、公表することの意味の問い直しを、最初の頃の感激と感謝の気持ちを思い起こしながらしたいと思います。
 反省をこめて、20000アクセスの折に書いたもの(2005.5.30)を再録しておきます。

  ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 0の並んだ切りのいい数字に意味を見出すかどうかは別として、2003年の5月にこの日記を書き出して、この2年間は、平凡ながらいろんなことのあった年月でした。

 個人的な事情に偏せず、かといって天下国家を論ずるという身にふさわしくないことも話題にせず、思いつくまま、時には時間を惜しんで、時には深夜に及んで、思いついたことをなんの脈絡もなくつづってきました。
 自分のメモづくりとしては、有意義なものであったことは言うまでもないのですが、それは共感の心を自分と心優しい第三者のなかで仲立ちさせることなしには不可能なことでした。20000たびも、訪れていただいた方々〔ここに自分も含めてもいいだろうと思うのですが〕に、「心から」(飾りの言葉ではなく)お礼を申し上げます。

〔追記〕
 前にも一度引用しましたが、10000アクセスの直後に書いたメモです。再再録。

 “もともとは、タイトルにあるように、見知らぬ言葉に出逢ったときのメモとして始めたものですが、いつのまにか自分のためのメモと雑文のためのスペースになってしまいました。

 過大広告の見本のような身に余る紹介文を付してリンクを貼っていただいたnet友の皆さんのおかげで、まったく存じ上げない幾人かの方が、この日記をご覧いただいているようで、とても有り難いことと思います。

 ただ、最初は日々増えていく訪問者数のカウンターを見て、喜んでいたのですが、この数が10000になったとき、かなり大きな戸惑いを感じたのもいつわらざる事実です。10000という数に見合う何かが自分にあるのだろうか、と考えたとき書くべきことばを失いかけました。
 まぁそんなわけで、今もふらふらしながら、単なる記録にせよ、本の感想にせよ、まずは自分にとって意味のあるものを残したいという気持ちで、落書きを続けている次第です。

 ・・・そんなわけで、今後もしばし、たどたどしくも何かを記録し、語りつづけたいと思っています。
 また皆さんの声も、聞かせていただければ幸いです。”

2009年3月10日 (火)

吉岡彌生、生まれる

 三月十日は、ちょっと追っかけをしている吉岡彌生の誕生日。といっても、旧暦時代の明治四年のことだから、G暦に直せば1871年4月29日の生まれとなる。1900.12.5(明33)、初の女性医師養成機関として東京女医学校(のち東京女子医学専門学校→東京女子医科大学)を創設。
 http://lgportal.city.kakegawa.shizuoka.jp/bunka/culture_history/kyodoijin/yayoi.jsp
 http://www.shiseikai.or.jp/yayoi/career_yayoi.htm

 場所は、3年前、麹町区飯田町四丁目九番地(現千代田区飯田橋2丁目)に開いた東京至誠医院の1室という、入学者4名。記念碑があるという。飯田橋界隈もゆっくり歩いてみたい場所。
 http://www.yama-show.co.jp/stroll/histry.html

2009年3月 8日 (日)

豊原大成氏、葉わさび(せんな)

 土曜日は1月に亡くなったおじの四十九日の法要。ここで出会ったいろんな“ことがら”を書き留めておきたいのですが、私事にわたることも多いので、導入のメモだけにしておきます。

 “手を合わせる”ことの意味。もと本願寺総長の豊原大成氏と西福寺のこと。カバンは見た目でなく、“中身”こそ。

 わさびと言えば、あの根の部分のことを考えるのですが、葉も花も春の山菜として、山の人々には親しい食材のようです。とくに葉は「せんな(菜)」と呼ばれていて、醤油漬け、粕漬けなどさまざまに食べられています。根と同様、からみが生きていてくせになるような美味?です。
 
 http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/kataru/1999/991221-toyohara.html
 http://www.h2.dion.ne.jp/~w-plants/wasabi.htm
 http://cookpad.com/recipe/159847

2009年3月 1日 (日)

「たけくらべ」(四)(五)(六)

 1/30に書いたように、一葉の「たけくらべ」は、『文学界』に毎月分載されたのですが〔1895(明28)年〕、2月28日には、その四・五・六の3節が発表されました。

 一日遅れになりましたが、きょうその(四)(五)(六)を読みました。実は、こうやって一年かけて「たけくらべ」を読んでみようと思っているのです。

 一葉は、(五)では三五郎を、(六)では正太を、言動から涙までを眼に見えるように書きこんでいて、同性の美登利のことはともかく、どうしてこんな男の子の心うちまでもみごとに描けたのか不思議でなりません。22歳の一葉がです。

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