久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって(2)
植物学者・久内清孝と作家・木下杢太郎の間に交流があり、杢太郎が戦時下で死の直前まで描き続けた植物の写生画集『百花譜』に久内がなんらかの形で関わっていたのではないか?。ここ数ヶ月、この疑問が頭を去らなかったのですが、昨日紹介した『目で見る木下杢太郎』(1981)と『久内清孝先生追悼集』(1982)の両書にともに収められていた「一枚の写真」がきっかけで、いろんなことがはっきりしてきました。
この辺りのことを両書を引用しながら、紹介していきたいと思います。
医学者・太田正雄(作家としては木下杢太郎)は、1926年(大15)年以来約10年間、東北帝国大学医学部皮膚科の教授を勤めた後、1937年東京帝国大学の医学部皮膚科に移り、教授として伝染病研究所などで研究教育に携わります。太田は、正規の授業のほかにも東北帝大では「森鴎外の会」、東京帝大では「時習会」という読書会を学生たちといっしょにひらいて学生と広い学びの場を持ちます。この東大寺代の「時習会」に久内氏も頻繁に参加することになるのです。
以下、『目で見る木下杢太郎』の「東大教授時代」からの引用です。
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1937(昭和14)年5月25日の日記に、「学生の『時習会』。久内氏を聘し、植物採集の事につき聴聞。」とあり、5月28の日記には、「稲田登戸に植物採集。久内氏教導す」とある。
ここにある『時習会』とは、東北大の『鴎外の会』のように、杢太郎の指導する東大医学生の読書会であった。
曽根正蔵氏によると「『時習会』では最初は論語を読み、次いでプラトンの饗宴を独逸語訳で、更にゲオルグ・ジンメルの論文等、主として西欧古典が選ばれた。…この会に対する先生の真剣さは非常のもので、いつも相当の準備をして居られた。しかもそれぞれの専門家を招待して意見を聴き討論する。(中略)また春秋の候の日曜日にはしばしば郊外に植物採集に出かけた。この時はいつも久内清孝先生が同行されて、非常に楽しく植物の勉強をした。」


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