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2009年2月

2009年2月27日 (金)

日向康『田中正造を追う』

 日向康『田中正造を追う――その“生”と周辺』(2003.12)

 多少高価故に購入を思いとどまること、幾たび。買うべし、読むべしとの、どこからともなく聞こえてきた声に背を押されて思い切りました。いつもいろんな回り道をしながら田中正造と宮沢賢治に帰ってくるのです。
 
  日向さんの代表作『果てなき旅』という正造伝さえ読んでないのに、この評伝余録ともいうべきしかし内容は伽藍のようにがっしりした書を拾い読みしながら、正造に向けて見据えられている眼にこわさを――それはそのまま正造自身のこわさでもあるはずですが――感じています。

 なお、田中正造の後半生に関して気になっていることをこの機会に書いておきます。高崎宗司『津田仙評伝』に、“1903年6月13日、仙は田中正造の面会要請にこたえて大阪行きを取りやめ、静養を兼ねて鎌倉に来るよう招待する手紙を出した。田中は泊まりがけでやってきた。翌朝別れに臨んで「これをと自分の兵児帯を解きて先生に与えられた。見るに、白縮緬にて矢島楫子よりもらいしものなりという」(山鹿旗之助)。仙の好意に対する感謝の印であったことだろう。”とあって、正造が仙の公害反対運動へに対する感謝として鎌倉を訪れたと書かれています。

 が、そうなのでしょうか。当時、津田仙は65歳、田中正造は61歳。国が公害の傷痕谷中村をまるごと水没しようと虎視眈々と計画を進めているこの時期に、正造は感謝の意を表するためにわざわざ鎌倉に仙を――仙の方は一線を退いていましたが――訪ねたのでしょうか。公害被害地の復興に農業専門家としての仙に質すことがあったのではないでしょうか。この当時の正造の軌跡をもう少し細かに追ってみたいと思っています。

2009年2月23日 (月)

「おくりびと」の賢治と親鸞

 「おくりびと」が、話題である。そりゃ、アカデミー賞ともなればたいへんなもんだ。この映画の監督、滝田洋二郎氏が富山県の出身だということで周りでも少しさわぎが大きいようです。が、小さな声で、言っておきますがこの映画まだ見てないのです。が、小さな声であっても、もう一つ言っておきたいことは、この映画の主演の本木雅弘さんが15年前に読んで以来、胸に温めてきてこの映画のテーマのみなもとになったというその本とは、『納棺夫日記』という青木新門さんの作品であること。

 今は、文春文庫でも読めますがこの本が単行本として世にでたのは、――青木さんのあとがきが「平成五年二月二十八日」ですから――ちょうど「16年前」。この本を手にしたときの感動は今も鮮やかです。大事にとってあった「初版本」の奥付をみると、残念なことにそれは初版ではなく同年の7月の「第五版」でしたが。

 久しぶりに開いてページをくっていると、“「死」というものに一層こだわりながら、いろんな書物をよんでいるうちに、宮沢賢治と親鸞に特別な関心をもつようになっていた。二人に絞られていったのは、人が死を受け入れようと決意した瞬間の不思議な現象を解く鍵を、宮沢賢治と親鸞が握っているように思えてきたからである。”という一節が目に入りました。そうです、今思い出したのですが、15年ほど前、賢治をあらたに読み直す機会をつくってくれたのが青木さんのこの本だったのです。
 ぜひ、静かな時間をつくって再読したいと思います。15年前の自分とも出会える気がするので。。。

〔追記〕
 これをちょうど書いているとき地元のチューリップテレビの小特集(「ニュース深夜便」)で青木新門さんが本木雅弘さんとのあれこれを語っておられて、本木さんの中でインドでの仏教の生死観との出会いがオーバーラップしている話など感銘深く見ました。こうしたことももう一度書く気機会をもちたいと思います。

〔追記の追記〕
 本木さんは、この点をある鼎談で、《インド体験と、『納棺夫日記』に感じた「光」》と述べています。
 http://www.1101.com/okuribito/2008-11-26.html

2009年2月22日 (日)

二人の父親、二人の子ども

 きょうは高濱(池内)虚子の生まれた日なのですが、この虚子とほぼ同じ明治--大正--昭和の時代を生きた一人の東北人がいます。宮沢政次郎、――賢治の父親です。二人の生没年をならべてみれば、そのことがよくわかります。

  高濱虚子  1874.02.22~1959.04.08
  宮澤政次郎 1874.02.23~1957.03.01

 そう、虚子と賢治の父・政次郎は一日違いで1874(明治7)に生まれているのです。といっても、虚子と政次郎の年譜を並べてみても交わるところはありません。が、同じ交わることのなさで言うと同レベルでありながら、いろんな意味で比べてみたいのが、これも同時代人の政次郎と中原中也の父・謙助の生き方と父親像です。

  宮澤政次郎 1874.02.23~1957.03.01
  中原謙助  1876.06.19~1928.05.16

 時代から自由に生きたと見られている賢治、中也という二人の子。しかし、彼らにも(彼らにこそ)、二人の父親から受け継いだ明治から大正へと日本が歩んだ〔資本と軍国〕という時代のスティグマがくっきりと刻印されているように思われるのです。そんなことをぼちぼちと書いてみたいなと思っています。。。。

 

2009年2月21日 (土)

さらさらと雪ふり、のち黄砂

 柳兼子さんの「砂丘の上」をじっくりと聴きました。このCDにはほどんど耳にすることのできない信時潔――犀星が「霜」の作曲を依頼しようとしたという信時です――の和歌につけた曲などが収められていてそういう意味でも貴重な一枚ですが、この「砂丘の上」の絶唱も素晴らしいものです。とりわけ「ひとりただひとり」の部分は孤独感が惻々として胸をうちます。

 ところで、きのうは啄木の生まれた日でした。犀星と啄木は3つ違いですが、同じ3つ違いの朔太郎とはちがい、啄木の生が短すぎたのでしょう、まったく接触がありませんでした。上京後の犀星が白秋をたずね吉井勇や木下杢太郎などのことを知ったことを考えれば、犀星と啄木の出会いはありえたはずです。

 小川洋子『心と響き合う読書案内』(PHP新書/2009.3)。
 FMの番組で語られたものという。この番組では紹介した本にちなんだ曲を3曲合わせて紹介したのだという。巻末のその曲リストに惹かれた買ったのですが、初めて読む小川さんの語りの方に引き込まれてしまいました。
 ↓のページで、その選曲理由も読めます。
 http://www.tfm.co.jp/ml/today/archive2008.html

2009年2月20日 (金)

犀星『抒情小曲集』と“二つの楽譜”(9)

 “小学校ではいちばん唱歌がうまかった。作文も図画もまずかった”

 犀星は、第一、第二の詩集『愛の詩集』『抒情小曲集』を世に出した翌年、はじめて世に問うた自伝的小説『幼年時代』で、このように書いています。小学生の犀星を、20年後の犀星にそのまま結びけて“犀星と音楽”を語ろうとしているわけではありません。注意したいのは、これは小学生時代の追憶ではなく、30歳の犀星が、みずからを語っていることば、みずからに語らせていることば、であることです。

 このフレーズは、『幼年時代』の第四節の冒頭に出てきて印象的なのですが、そこには犀星の巧みなレトリックが隠されています。前節の終わりはこんな具合です。
 “私は組打ちが甘(うま)かった。そのかわり四五人に組敷かれて頭をがんがん張られることもすくなくなかった。私はどういう時にもかつて泣かなかったために、仲間から勇敢なもののように思われていたが、心ではいつも泣いていたのだ。”

 ――けんかの名人として自他ともに認める存在であった少年は、「仲間から勇敢なもののように思われていたが、心ではいつも泣いていたのだ。」そしてここで見事な転換があって、「小学校ではいちばん唱歌がうまかった。」と続くのです。
 野人でありかつ抒情詩人であるみずからの自画像を、その異質なものの結節点としての「音楽(唱歌)」をキーワードに見事に描いていることに注目したいのです。 

 

2009年2月19日 (木)

犀星『抒情小曲集』と“二つの楽譜”(8)

 きょう帰ったらnet古書で買った『佐藤春夫・室生犀星集』(近代文学大系39/角川書店/1973.6)が届いていました。この本は先日来、この日記で引用しているのですが、実は図書館からの借用本のため、買うことにしたのです。うれしかったのは、これに「月報(44)」がついていたこと。そこに室生朝子さんが「抒情小曲集の異同について」という短文を寄せておられるのです。ここに、注目したい一節がありました。

 “大正三年に上野の音楽学校から出版されていた「音楽」という雑誌に、一月号「夜」、二月号「四方に伸ぶる手」、三月号「地上炎々」の三篇の詩を書いている。そして一月号と二月号の署名は犀星ではなく、「青き魚を釣る人」となっていた。私は驚いた。「青き魚を釣る人」というのは、大正元年十月号のスバルに発表した詩であって、大正十二年四月アルス刊の詩集名でもある。(中略)「音楽」という雑誌は誌名のとおり音楽専門の雑誌であるから、詩を発表することは、その雑誌に書いたということだけで、非常にハイカラな、異なる分野の発表誌ということに、犀星はひとつの誇りとモダンな心が働いていたのであろう。小さいきどりのようなものは詩の中に表現せず、あえて署名で精一杯に気どったのではないであろうか。そしてこの三篇の詩はどの詩集にも、未収録である。自叙伝のなかで牛山充氏から頼まれて「音楽」に詩を書いたと記されてはあるが、雑誌を見なければ、永久にわからないことである。”

 ――長々と引用しましたが、こうした事実から当時東京音楽学校に勤務し当校の学友会機関紙『音楽』の主催をしていた牛山充氏と犀星がなんらかの縁があったことがわかるのです。音楽評論家の走りとして知られる牛山充(1884.6.12~1963.11.9)がどのような人物であったのか、こうした探索もこれからの私の課題ですが、ちょうど明日が命日となる林古渓と成田為三の出会いをつくり名曲「浜辺の歌」を誕生させた影の仕掛け人であることは名曲誕生物語などでふれられているエピソードです。犀星が何人かの作曲家と知り合い交際を広めたにも牛山がその核にいた学友会の人脈があるのではないでしょうか。
 歌曲「かもめ」の初演の場であったと思われる奏楽堂での土曜演奏会というのも、この学友会の主催行事なのです。

 大正三年(1914)は、犀星と朔太郎が前橋で対面を果たした年ですが――その記念すべき日はさる2月14日でした――、そして私は犀星の音楽への傾斜が朔太郎の影響によるものではないかと考えていたのですが、すでにその時点で牛山充から音楽雑誌に詩の寄稿を求められる関係であったのです。

 犀星の音楽との縁は、思ったよりも広く深いようです。
 

2009年2月17日 (火)

犀星『抒情小曲集』と“二つの楽譜”(7)

 もう少しで見過ごすところだったのですが、小松耕輔作曲の「砂丘の上」には、どうしても指摘しておかねばならぬ点がありました。

 まず、犀星の詩を紹介します。

     砂丘の上

  渚には蒼き波のむれ
  かもめのごとくひるがえる
  過ぎし日はうすあおく
  海のかなたに死にうかぶ
 
  おともなく砂丘の上にうづくまり
  海のかなたを恋ひぬれて
  ひとりただひとり
  はるかにおもひつかれたり

 ところが!、――ここに楽譜も実際の音も提示できないのが残念なのですが――、歌曲「砂丘の上」には、原詩第3行の「うすあおく」の部分がないのです。23小節目から「すぎしひはうみのかなたにしにうかぶ」と、一つのフレーズで歌われるのです。もちろん詩が先にあってつくられたこのオリジナルな楽曲が、その創作(作曲)にあたってあえて詩の一部を削る必要はなく(もちろんこの可能性を100%否定はできませんが)、これは詩を提示されて短期間に作曲された際におきた悲しいミステイクであると考えざるをえません。もしかすると人づてに小松耕輔に渡された手書きの詩から、この「うすあおく」の部分が脱落していたのかも知れません。原因はともかく原詩といっしょに世にでた歌曲は瑕疵をもって生まれていたのです。

 しかし私が注目したいのは、この欠落した歌詞の楽曲を犀星は事後承認して世にだしたということ、そしてこの詩集の発表後におそらく「うすあおく」を欠落した形でのこの曲のお披露目もされている事実なのです(燕楽軒での公表)。

 みなさんは、このミステイクとミステリーをどう考えられますか。

2009年2月16日 (月)

犀星『抒情小曲集』と“二つの楽譜”(6)

 先日(2/12)、鳥居邦朗さんの『佐藤春夫・室生犀星集』(近代文学大系39/角川書店/1973.6)に付された注釈を紹介した時、省略した部分がありました。詩「霜」に弘田竜太郎氏が作曲した経緯が「はじめ音楽学校の信時潔に作曲を依頼したものが、弘田の方にまわったものらしい。」と述べられた後に、以下の『感情』からの以下部分が続くのです。『抒情小曲集』発行の翌年のできごとです。

 “(大正八年)六月五日東京音楽学校土曜演奏会で弘田龍太郎氏の作曲された私の小曲『かもめ』が武岡鶴代女史によって唱はれた。武岡氏の美しい奥行きのある声は、弘田氏の伴奏と相俟って実に見事な『永久の瞬間』を人々の心に触れさせた。私自らにとっても何者にもたとへがたい魂の幸福を感じた。「感情」」(大正八・七)”

 描かれている大正前期の文化状況も貴重ですが、犀星の音楽観がうかがわれて興味尽きない部分です。
 この土曜演奏会(奏楽堂)の5日後の6月10日に、『愛の詩集』の会が本郷の燕楽軒で行われ小松耕輔も出席する中、今度は詩「砂丘の上」の独唱(近藤義次)がおこなわれたというのですから、驚きというか、自分でも犀星のことを書いているのか賢治のことを書いているのか取り違えるばかりのある眩しささえ感じてしまうのです。

 余談ついでに書いておきますが、土曜演奏会に出演したソプラノ歌手・武岡鶴代(1894~1966)は、当時東京音楽学校を2年前に卒業したばかりの期待の新人だったのでしょうが、きのう紹介した柳兼子(1892~1984)は、さらにその6年前に同学校を卒業しています。もしかすると兼子もこの土曜演奏会に同時に出演していたか、鶴代を先輩として見守る立場で同席していたかもしれません。
 こう考えると、90年前に犀星の同時代人として『抒情小曲集』の近くにいた柳兼子が、遺してくれた絶唱の「砂丘の上」は、奇跡的に歴史的な演奏であるというべきなのでしょう。

 今回からタイトルを《犀星『抒情小曲集』と“二つの楽譜”》に、変えました。

 

2009年2月15日 (日)

室生犀星の生誕と『抒情小曲集』(5)

 金曜日の夜、amazon.にたのんだCDがもう届きました。
 〔「柳兼子 現代日本歌曲選集2 日本の心を唄う」オーディオ・ラボ OVCA-00003 〕

 柳兼子さんについては、Wikipedia↓を参照いただくとして、このCDには、金曜日にこの日記で紹介した犀星の詩に、小松耕輔が作曲した「砂丘の上」が収録されているのです。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%85%BC%E5%AD%90
 『抒情小曲集』に掲載されていた小松耕輔の曲が、音として聴けるとは思ってもいなかったのですが、「犀星+小松耕輔」を検索してみて、偶然にこのCDを見つけた次第なのです。

 実は、《犀星と音楽》、こんなテーマが成りたつとはまったく予想もしていなかったのですが、これはもうただただ私が犀星のことを知らなかったゆえのことで、犀星自身が音楽について、多くのことを語っているのです。もちろん宮沢賢治とは違い、犀星研究が、多くの人の目にふれるかたちで流布しているわけではないので皆無とは断言できないのですが、私が目にした犀星論で、「犀星と音楽」について正面からふれているのは――田辺徹さんの『回想の室生犀星』における言及をのぞいて――まったくないのです。

 というわけで、「室生犀星の生誕と『抒情小曲集』」というとんでもないタイトルで思いつきを、先週来つづってきたのですが、どんどんテーマがそれ、断片的になるのを承知のうえで、犀星と音楽に関わる「断片」を、折にふれアットランダムに、紹介していきたいと思っています。
 

2009年2月14日 (土)

室生犀星の生誕と『抒情小曲集』(4)

 きょうは土曜日行きつけの喫茶店で、復刻版の室生犀星『抒情小曲集』を、広川松五郎装丁のこの小型本で、ゆっくりとコーヒーを飲みながら読むという多少ぜいたくな時間をすごしました。左右の見開きにゆったりとした字組みで一つないし二つの詩がおさめられているという文庫本では味わえない世界があって、詩集を最初のページから最後まで、胸にたたむように読むというそれはほんとうにぜいたくな一時間半だったのです。

 ここには、文庫本とかには省略されていてあまり目にする機会のない、この本ができる経緯を犀星自身が語った部分を引用しておきます。

 “自分は五月頃から原稿をまとめ初めて七月十二日の大颱風が都の空をおそうた夕方に総ての仕事を終った。二百篇あまりあった中から抜いてあとは棄ててしまった。古い雑誌や小さい紙片や破れた原稿紙の綴りから掘り出すように集めて見て胸の高まる気がした。ちょうどその時連日連夜の暴風が恐ろしい颱風となって郊外に荒れ狂うた。小さい庭のダーリヤ・日まわり・菊などを微塵にしようとした。一丈余も伸びた日まわりの葉は裂けて穴だらけになった。けれども倒れずに最後までしっかりと大地の底にしがみついていた。自分はこの日原稿を綴じあげて作曲家にてがみを書いた。そしてこの本を街に出したり友人の机上に置かれることを考えて酷く緊張した。”

 ――この作曲家宛ての手紙とは、誰宛ての、どのような内容のものだったのでしょうか。詩集の原稿ができ上がった時点で、初めて詩に音楽をつけ、それを詩集に添えることを思いついたのでしょうか。そもそも、音楽が付されることになった詩が、どうして「霜」と「砂丘の上」という2作品だったのでしょうか・・・。
 この作曲家宛ての手紙は、さまざまなことを考えさせてくれます。

2009年2月13日 (金)

室生犀星の生誕と『抒情小曲集』(3)

 今日はめずらしくも勤務先の休憩時間に車を図書館に走らせました。お目当ては事前にnetの蔵書検索で調べた「2冊の本」。そのうちの一冊が、近代文学館による復刻版の犀星『抒情小曲集』。きのう金沢の雨宝院で目にした弘田竜太郎、小松耕輔自筆の楽譜をあらためてよく見たかったというよりは、コピーをとって曲を覚え口ずさんでみたかったのです。

 実は、『抒情小曲集』に添えられた写真版の楽譜は不鮮明なもので(昨日の鳥居さんの「注」参照)、展示物の『抒情小曲集』をゆっくり見る余裕がなかっただけではなく、濃度をめいっぱい濃い目に調整してコピーすれば少しは読めるようになるのでは・・・という期待?もあったのです。

 今、コピーした楽譜を見てもまったく読みとれないところもあれば、曲想記号など写真版では読めたものがコピーではほとんど判読できないのです。ここで、(ちょっととまどいながら)『抒情小曲集』の巻頭に掲載された二つの楽譜を紹介しておきます。

 扉絵を開けたページに、縦書きの2行書きで;

  砂丘の上 小松玉巌作曲
  霜    弘田龍太郎作曲

とあり、さらにページをめくると見開きで手書きの楽譜が左右2葉で広がっています。左葉に「霜」というタイトル、楽譜の右肩には“弘田龍太郎作曲”とあって、Andantino:2/4拍子:ホ短調とおぼしき曲が展開されています。
 1枚ページをめくるとやはり左右2葉の楽譜なのですが、これは3ページ、4ページにあたるもので、もう1枚ページをめくるとこちらの左葉が曲頭のページで、「砂丘の上」というタイトル、“K.Komatsu”というサイン、字が判読しにくいのですが〔molto dolce e tranquilloto〕と読めます。3/4拍子:変ホ長調。

 ちょっととまいながら、と上に書いたのは2点。詩の順序からいうと「霜」が先なのですが、紹介ページには「砂丘の上」が先に書かれていること。もう一つは、4葉(4ページ)にわたる「砂丘の上」が左開きの順序になっていること。もちろん楽譜としては左開きでいいのですが、右開きの本であれば1・2ページの2葉を先に持ってきてもよかったのではという点です。

 こまごまと書きましたが、ほとんど楽譜としては読みとれない「写真版」といい、逆順の譜面の並べ方といい、ここにとまどいながらも楽譜という扱いなれないものをあえて詩集に載せようという犀星の大きな試みが見てとれるのです。

 あらためて着目すべきは、巻頭に――自序や目次に先立って――二つの楽譜と、「序曲」という短いメッセージを置き、音楽と詩を併置した『抒情小曲集』の構成ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

2009年2月12日 (木)

室生犀星の生誕と『抒情小曲集』(2)

 雨宝院や室生犀星記念館で『抒情小曲集』の装丁は展示のガラス越しに何度も目にしていて、いつも気になる何かを気持の中に残していたのですが、それが“あっ、そうなのか”となにか安心した気持になれたのは最近、それが広川松五郎の装丁作品だと知ってからのことだと思うのです。『抒情小曲集』に先立って犀星の第一詩集として世に出た『愛の詩集』も、そして小説集『性に目覚める頃』も、感情詩社の同人・恩地孝四郎の装丁なのですが、『抒情小曲集』は犀星の刊行された作品のなかでも唯一、松五郎のデザインなのです。(『抒情小曲集』中の扉絵と5点のカットは、恩地孝四郎)

 そんなわけで、あらためて『抒情小曲集』を手にとって眼近でじっくりと見てみたいという思いが、どんどん強くなってきたのです。先日(1月29日)に、広川松五郎の誕生日に関わって書いておきたかったかったことの一つは、松五郎作品としての賢治『春と修羅』よりも犀星『抒情小曲集』のことだったのです。

 そんなとき目に飛び込んできたのが、『抒情小曲集』に写真版の楽譜が掲載されているというびっくりするような注釈でした。しかもそのことに広川松五郎が関わっているというのです。(『佐藤春夫・室生犀星集』(近代文学大系39/角川書店/1973.6)の鳥居邦朗氏による脚注)

 “犀星は『抒情小曲集』を出版するとき、装丁をした広川松五郎の紹介で音楽普及会の小松玉巌にこの詩(=「砂丘の上」)の作曲を依頼し、その楽譜を詩集巻頭に載せた。その後その写真が不鮮明であったという理由で、改めて「感情」に凹版で再掲した。なお大正八年六月一〇日に、『愛の詩集』の会が本郷の燕楽軒で開かれたとき、小松玉巌が声楽家近藤義次を伴って出席し、小松が挨拶したあと、近藤がこれを歌いアンコールをうけたとある。”
 “『詩集(=抒情小曲集)』には、この詩(=「霜」)につけた弘田竜太郎の曲の楽譜が掲載されている。「感情」の記事によれば、はじめ音楽学校の信時潔に作曲を依頼したものが、弘田の方にまわったものらしい。”

 こうした指摘を読んだ以上は、「『抒情小曲集』の現物を見るしかない!」――はやるような気持ちでいたときに、2月11日が犀星にとって一つの記念日だということを知って、金沢行きを、犀星の雨宝院行きを、決めたのです。

2009年2月11日 (水)

室生犀星の生誕と『抒情小曲集』(1)

 昨晩、ある犀星の年譜をながめていて「二月十一日、室生真乗の養嗣子となり、以後室生姓を名のる。」という条が、目にはいった。明治二十九年(1896)の項である。
(養嗣子になった日付が、2月11日ではなく3月の11日になっていたり、2月と3月を併記してある年譜もあります。この点、後述。)

 犀星は数え歳で8歳の春、赤井ハツの私生児〔赤井照道〕から、ハツの内縁の夫で雨宝院の住職・室生真乗の養嗣子〔室生照道〕になったのだ。が、真乗とハツ、犀星(照道)を含むもらい子が3人、計5人の生活が変わったわけではない。そしてどうもこれは法律上の届けだけで、当時金沢市の野町尋常小学校の一年生であった彼の呼び名がすぐに赤井から室生に変わったわけでもなさそうなのである。しかし、この時期に、私生児から真言宗寺院の跡取りとして位置づけを与えられたのには、おそらく養父・真乗の幼い犀星へのなにがしかの思いがあったことだろうことだけは確かである。

 というわけで、朝目覚めると同時に、雨宝院に行こう!、と決めた次第なのです。犀星にとって、「室生犀星」の誕生につながる大きな画期となったこの日に、所縁の雨宝院に行ってみたくなったのです。もし、雨宝院の高山住職が私のことを覚えておいでであればぶしつけながらあるお願いをしてみようという別の思いも持ちながら、なのですが。

 高山住職は御在宅であたたかく迎えてくださいました。そして、私の願いごとに快く応じてくださり、“ふるさとは遠きにありて思ふもの”で知られる犀星の第二詩集『抒情小曲集』を出してきてくださいました。こうして、ほとんど話題にされることのない、『抒情小曲集』に付された“二つの楽譜”を見ることができたのです。『抒情小曲集』は、楽譜とともに世に出ていたのです。これは朔太郎、犀星、暮鳥の三人の結社“人魚詩社”の目的を再検証するためにも重要な事実だと思われるのです。(続く)

2009年2月 8日 (日)

佐々醒雪の“佐々”とは

 さがしていた『図書』の12月号が見つかったので、忘れないうちにメモ!です。12月号には、不破敬一郎さんの「木下順二と山本安英」(一)というエッセイ?が載っているのですが、ここに木下順二氏のお母上、三愛子さんとその兄・佐々醒雪(せいせつ)のことが出てくるのです。

 “順二の母三愛子は、尾張藩京都留守居役佐々政直の娘で、京都吉田山山麓で育った。兄が佐々醒雪という著名な江戸文学者である。彼の周辺の高山樗牛・斉藤阿具・夏目漱石等の友人・文学者・作家のことを母はよく順二に話し、彼の作家としての進路にその影響が少なからずあったものと思われる。”
 
 私にとって佐々醒雪(1872~1917)は、江戸文学者ではなく金港堂の『文芸界』の編集者なのですが、ここまでは私にとっては予習済みの事実(拙日記2006.104)だったので――もちろん、木下順二が佐々醒雪の甥だと知ったときの驚きはかなりのものでしたが――ふむふむと読んできたのです。で、次の段落の“昔、戦国武将佐々成政は秀吉に敗れ、熊本城の管理を命じられ・・・”の行文に、「醒雪、おまえもか!」とつぶやいてしまったという次第なのです。

 我が富山にゆかりの戦国武将・佐々成政の一族が今日にいたるまで歴史の中で、“ぽっ、ぽっ”と登場してくるのです。仔細は控えますが、大石良雄(あの赤穂の)の妻・理玖(りく)、水戸黄門の漫遊記に登場する“助さん”こと佐々助三郎宗淳(むねきよ)、あのもと内閣安全保障室長・佐々淳行・・・。
 もちろん、「佐々醒雪」も珍しい佐々姓であるので、佐々一族では?という思いはあったのですが、佐々成政の関連本には、上記のお歴々は誇らしげに?に登場するのですが、マイナーなこの文学者に言及したものは皆無だったのです。

 佐々一族の系譜については、花ケ崎盛明編『佐々成政のすべて』を整理して、この佐々醒雪についてもこの不破論文に書かれてないところも含めて書いてみたいのですが、――醒雪は、宗淳(助さん)や佐々淳行氏とは別の系統です――それはまたの課題とします。

〔追記〕
 この不破論文の「木下順二家系略図」には、佐々醒雪、佐々三愛子の父・佐々政直に「佐々成政弟信宗の後裔」と付注されています。

*佐々醒雪についてふれた拙日記
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20061004
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20080409

2009年2月 4日 (水)

オリオンの真下の雪の宿

   オリオンの真下春立つ雪の宿  前田普羅

 「この句が詠まれた立春の日、普羅の家宅のあった場所に立ってみたい・・・・」。この願いは、昨晩のぐずついた天気とうって変わって晴天の今日、朝から――実現できそう!――そんな思いで、夜を待ちました。
 と言いつつも、当時の富山県上新川郡奥田村の普羅の家の場所を探し当てた6年前の資料は行方不明。7時過ぎに記憶にたよって現地に向かいました。当時〔大正14年?〕と違い、家の建てこんだ、しかもあらたな東西に走る都市計画道路〔しののめ通り〕がかつての道筋に沿った集落を二分していて、大正~昭和初期の趣は残ってないと言っていいのでしょう。
 車を降り立った富山市弥生町、路面にはまったく雪がなく、普羅が詠んだ「雪の宿」は今日の体感からははずさざるを得ないのですが、晴れ上がった立春の夜、それだけに夜気は肌をさす寒さです。

 普羅がオリオンを見たのは何時頃だったのでしょうか。私がその地を訪れた8時頃に、勇者オリオンは正立した星座のかたちでほぼ真南の空にゆったりと懸っていました。「そうだったのか」――不思議と納得できたのは、普羅も見たオリオンは南天にすっくと立って、雪原中の雪の宿と普羅その人を全天の高みから何ごとかを語りかけながら見おろしていたであろう情景でした。

2009年2月 3日 (火)

瑠璃色の小さな花

 明日、立春。

 そう言えば、きのう、オオイヌノフグリの瑠璃色の小さな花を見つけました。

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