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2009年1月

2009年1月30日 (金)

「たけくらべ」掲載始まり、掲載終わる

 明治28年1月30日、『文学界』に「たけくらべ」の(一)から(三)が発表される。以来、樋口一葉の「たけくらべ」は1年かけてこの『文学界』に分載されることになる。以下は分載データ。自分のためのメモ。

 1895(明28)年
   1月30日 (一)(二)(三)
   2月28日 (四)(五)(六)
   3月30日 (七)(八)
   8月30日 (九)(十)
   11月30日 (十一)(十二)
   12月30日 (十三)(十四)
 1896(明29)年
   1月30日 (十五)(十六)
 
   ※4月10日、「たけくらべ」は『文芸倶楽部』にあらためて一括掲載

 こうして1894(明27)年12月30日の『文学界』への「大つごもり」に始まった“奇跡の14か月”は終わり、この年(明治29)11月23日、一葉は23年6か月の生を終える。

2009年1月29日 (木)

広川松五郎の誕生日

 今年、生誕120年になる染織工芸家・広川松五郎の誕生日。そして同じく生誕120年になる作家・藤澤清造の命日。

 おそらく二人はこれも同じ年生まれの室生犀星か尾山篤二郎を介して、知り合っていたであろうとおもうのですが、そうしたこともふくめ松五郎についてはいくつかメモ書きしたいこともありますが、時間がないのであらためて。

 〔追記〕
 私もふくめ多くの人にとって広川松五郎は染織工芸家というより、多くの文学書の装丁作品を遺してくれた自らも歌人でああった本づくりの名人としてなじみがあるのではないでしょうか。
 ところで、賢治の『春と修羅』の装丁を広川松五郎がするにいたった経緯はどの本を見ても明確ではないのですが、関登久也の依頼でこの本の背文字を「詩集」と書いてしまった――心象スケッチと書かねばならなかったのに――尾山篤二郎とのつながりと考えればよいのだと思います。

 ※広川松五郎  1889.01.29~1952.11.02
   藤澤清造   1889.10.28~1932.01.29

 

2009年1月24日 (土)

〔漱石書簡の久内氏〕と〔植物学者の久内氏〕-(1)

 漱石から“古今独歩の誤植多き書物(=「文学論」)”を恵与された久内清孝氏(〔漱石書簡の久内氏〕)と、帰化植物の研究などで一つの画期をなした植物学者・久内清孝氏(〔植物学者の久内氏〕)が、同一人物なのかという疑問を5年前に旧日記に書きました。私自身は、漱石宛ての久内氏の書簡が横浜からのものであること、植物学者・久内氏のスタートがジャパンタイムズ横浜支社長時代の横浜植物会の活動であったことから、肯定的に考えていたのですが、〔漱石書簡の久内氏〕と〔植物学者の久内氏〕を架橋する事実がなかなか見つからず、あの広く深い蓄積のある漱石学者も黙して何も語らないことに不安と不信をもっていたのです。

 ところが、昨年末、拙日記を見られた久内清孝氏の遺族の方から、“夏目漱石と書簡のやりとりをした人物と、横浜に住む、植物学者の久内清孝は同一人物です。”と明確に述べられたメールをいただいたのです。
 この有り難い音信をきっかけに、いろんなことが分かってきたのですが、そういったことを少し折を見て書いてみたいと思います。

2009年1月21日 (水)

「95点の索引」の謎

 数年前にある本(歴史書)の索引づくりを引き受けたことがある。項目索引、人名索引、地名索引と欲張ったのですが、結局人名索引のみに。大げさと言われそうですが、楽しくも、自分に厳しく向き合った仕事でした。私自身の経験でも、一つの索引項目から、広い知的世界が広がったことが何度もあるから、索引づくりに手を抜けないし、抜きたくなかったのです。

 昨年、「ちくま学芸文庫」に牧野富太郎の著作が2冊が刊行されたのですが、そのうちの『植物一日一題』には「植物名索引」「人名索引」「書名・雑誌名索引」が、『植物記』には詳細な「年譜」が付されています。参考文献としての読み方もする私としては、そのはからいには感謝なのですが、少しのぞいてみた「人名索引」には失望してしまいました。統一性のなさ、記述誤り・・・、これがちくま編集部の仕事なのでしょうか。
 凡例には、「人名の次の( )内は,幼名または号と,生没年を併記した.」と書かれているのですが、生没年が記されている人物とそうでない人物があるのです。この生没年記載の有無の区分がわからないのです。たとえば近年の植物学者――牧野にとってはすべてが後輩格にあたるであろうが――のうちで、〔中井猛之進〕に(1882―1952)とあって、〔久内清孝〕には何も記載がないのはなぜなのであろうか。〔津山尚〕には(1910― )とあって、〔遠藤善之〕には何も記されていないのはどうしてなのか。
 これは『漱石全集』の書簡集に、植物学に不明な編集者によって「久内清孝 不詳」と、書かれてしまったのと同一にはできないのである。

 「95点?の索引」、――これを“杜撰な索引”とあえて言いたいのですが、ちくまの担当者の方は、「こんなもんさ」と言われるのでしょうか。
 ちくま書房の編集部に成り変って正誤表をつけるならば、
 「久内清孝 35,257」は「久内清孝(1884―1981) 36,257」である。そう、参照先のページにも誤植があるのである。

2009年1月17日 (土)

「シンフォニー楽譜出版」&「シンコー・ミュージック」と草野兄弟

 黒岩さんのブログ《古書の森日記 by Hisako》に「シンフォニー楽譜出版」の楽譜(昭和4年)が、古書として紹介されていました。
 この「シンフォニー楽譜出版社、」同名の出版社がいくつかあっても不思議ではない商号ですが、検索では「この」シンフォニー楽譜出版だけがヒットします。それはさておき、ここに、“二つの草野兄弟の物語”があります。概略だけ――といっても概略しか知らないのですが――を、メモとして書きとめておきます。

 二つの草野兄弟――。シンフォニー楽譜出版を始めた草野兄弟(草野茂、草野貞二ら)と、兄と袂を分かって新たな楽譜出版社を興した貞二の子供世代の草野兄弟(昌一、浩二)です。
 残念なことに滋賀出身の第一世代の草野兄弟については、楽譜出版にかけた物語があるはずなのですがまだ調べていません。二男・貞二が新たに始めた楽譜出版社は、「新興音楽出版」→「シンコー・ミュージック」→現在の「シンコーミュージック・エンタテイメント」となって今日にいたっています。楽器をやっている人ならその社名ロゴも含めおなじみの音楽出版社です。 草野貞二の長男・第二世代である昌一氏は「漣健児(さざなみ・けんじ)」の名で知られるポップス音楽の訳詩家。浩二さんの方は、「上を向いて歩こう」を世に出した東芝レコードのディレクターです。

・黒岩さんのご存じ《古書の森日記 by Hisako》は:
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/
・シンコーミュージック・エンタテイメントについては:
http://www.shinko-music.co.jp/corporate/timeline.html
・漣健児さんについては:
http://tads-talk.blog.so-net.ne.jp/2006-05-27
http://www.shinko-music.co.jp/sazanami/profile.html
・草野浩二さんについては:
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%C1%F0%CC%EE%B9%C0%C6%F3/?ie=EUC-JP

2009年1月13日 (火)

――詩「無造作な 雲」

    無造作な くも。
   あのくものあたりへ 死にたい

 久しぶりに開いた八木重吉の詩集。いいなぁ。

2009年1月 9日 (金)

植物学者・久内清孝氏と漱石

 久しぶりに古本らしいにおいのするいい本に出会いました。

 『久内清孝先生追悼集』(〔非売品〕幾瀬マサ編/広川書店/1982.4)

 植物採集のオールドファンの方なら名前はご存じかも知れませんし、氏の名を冠した“ヒサウチソウ(久内草)”という珍しい花も少しは知られているかも知れません。久内清孝氏は、植物分類学の泰斗といっていい大学者でしたから、この本には氏を慕う後輩や弟子筋にあたる植物学者の方が多くの追悼文を寄せています。久内氏が天寿を全うされて亡くなられたのは97歳のことでしたから、寄稿者は自ずと氏より若い人たちになるわけです。そこには牧野富太郎との貴重なエピソードを含む久内讃歌がたくさん語られているのです。

 私が久内清孝氏の名前を知ったのは、前田普羅の関東大震災を扱ったエッセイにに登場する植物好きなジャパンタイムズ横浜支局長としてでした。
 そして、偶然、夏目漱石の書簡の中に同姓同名の「久内清孝」を見つけたのです。
 
 「ジャーナリスト」、「植物学者」、「夏目漱石の友人」。この3人の久内清孝氏は同一人物なのか・・・?。こうした何気ない疑問から私の久内清孝氏との付き合いが始まったのでした。

 そして、こうした疑問をつづった過日の日記を読まれた久内清孝氏の縁者の方から、貴重なメールをいただいて、私の久内清孝探索は、新たに始まりました。上記の『久内清孝先生追悼集』の存在もそんな中で知ったのです。
 近いうちに、――まだまだ不明なことだらけなのですが――久内氏と漱石の関わりの辺りから少し情報を整理してみたいと思っています。

(参照/旧日記)
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20080830
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20030628
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20030615

2009年1月 8日 (木)

桂書房が梓会出版文化賞〔特別賞〕

 専門書出版社が運営している団体に社団法人「出版梓会」があります。この団体が選ぶ“梓会出版文化賞〔特別賞〕”に富山県の出版社《桂書房》が選ばれました。(といっても決まったのは昨年の12月のことで、一か月も経った今頃になってようやく知った次第です。)
 〔この賞は、個々の「本」に与えられる賞ではなく、すぐれた出版事業を続けている「出版社」に与えられる賞です。〕

 桂書房の授賞を出版梓会が発行している「出版ダイジェスト」は、“出版の志を地域において苦労して実現している社です。中央集権的な動きが、文化領域においても増大する中で、脈々と続けられている活動が賞にふさわしいとみなされたのです。”と書いています。

 我が富山県が文化後進県であることは、残念ながら認めざるをえない事実だろうと思っていますが、そういう富山県が誇れる唯一の文化活動が勝山敏一さんのこころざしに根ざした「桂書房」の地道な出版活動であると私は信じて疑いません。
 勝山さんの見事な成果に与えられた賞に、心から「おめでとうございます。」とお伝えしたいと思います。

〔追記〕
 梓会の名称は、“「梓」は出版の原点である木版刷りの版木に使われていた木の名前。「梓に刻む」といえば出版することを指したという。また、梓は弓の材料だったことから「あずさ弓、ひとたび放てば戻らず、人の心を射る」。つまり本が返品されないで人の心に届けという願いから命名された”と↓のページで知りました。
http://www.shinbunka.co.jp/news2008/12/h081218-06.htm

2009年1月 5日 (月)

津村信夫さんの誕生日

 津村信夫さんの生誕100年の日。

    1909.01.05~1944.06.27

  ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 亡くなった年の日記(5.4)に残されていた師・室生犀星(号・魚眠洞)への歌

       魚眠洞先生を思ふ。
   我は病み堀の辰雄は立たずてふ 馬込の春は寂しかるらむ
   枝ながら紅の梅たまはりし 馬込の大人(うし)を思ほゆるかも

〔追記:1/7〕
 久世光彦氏の『花筐(はなかたみ)――帝都の詩人たち』(2001.7/都市出版)というエッセイ集に、津村信夫について書かれた秀逸な2篇が収められているのをきのう知りました。残念ながらこの本は絶版で、古書価格もけっこう高値のようです。文庫化されることを望みます。

2009年1月 4日 (日)

“福梅”--金沢・高岡

 2日、年始に訪れた家でいただいたのが“福梅”。金沢のお正月に欠かせない和菓子、と説明されますが、金沢だけでなく加賀藩の商都であった高岡でも、お正月の定番菓子のようなのです。

 どんなお菓子?。どんな味と聞かれても困るのですが、一口で言えば「最中(もなか)」です。紅白の対で供応されることが多いようですが、加賀藩の家紋である「梅鉢」をかたどった祝い菓子で、餡も独特なつくりのようです。
http://hokuriku.biz/sweets/%E7%A6%8F%E6%A2%85.html
http://www.s-kashi.com/fukuume.html
http://www.kanazawa-ya.com/cgi-bin/WebObjects/Kanazawaya.woa/wa/product?id=1665

 開町400年の今年の高岡とどうつきあっていこうかと、愚問駄考が浮かんだが、気にせずに苦茶で福梅をおいしくいただきました。

〔追記1:梅鉢紋について〕 以下、「ウメバチソウ(梅鉢草)」にことよせて以前書いた「梅鉢紋」についての拙メモです。
 “菅原道真を祭神とする天満宮系の神社の「梅紋」――基本的に5弁が接している。本家本元の太宰府天満宮は「梅鉢紋」ではなく「梅紋」――も様々なヴァリエーションがあります。その中の「梅鉢紋(剣梅鉢)」は、むしろ加賀前田家が菅原道真を祖とするという伝承をオーソライズしたことによって、自家の紋を広く世に定着させたものと言われています。
 前田藩でも↓をみていただければわかるように本家加賀前田と支藩の富山前田家・大聖寺前田家では真ん中の部分が違います(「加賀梅鉢」「富山梅鉢」「大聖寺梅鉢」。さらに時代によっても細かなヴァリアンテがあります)。

 実は「梅鉢」の「鉢」とは何だろうと長い間疑問だったのですが、これは「鉢」ではなく「撥」(三味線などのバチ)を花蕊にかたどったことによってその形も名前も生まれたもののようです。”
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/indextop/kamon.html
http://www.chiyoda-necktie.co.jp/jp-site/shokubutsu/ume/ume.htm
http://www.aduchimomoyama.com/guide_k.htm

〔追記2〕
 加賀藩の「梅」については、「天下“葵”よ 加賀様“梅”よ 梅は葵のたかに咲く」という句が伝わっています。これについては、↓参照。
 https://iiiro.jp/blog/tonosan/48297.html

『前田普羅 生涯と俳句』(2)

 昨日の『前田普羅 生涯と俳句』の記述に間違いがありました。追補します。

〔訂正:1/4〕
 きのう、『前田普羅 生涯と俳句』には、新興俳句に対する普羅の態度については「まったくそのことが触れられてはいません」と書きましたが、この部分、訂正します。途中から読み始めたため、読み抜かしていた個所がありました。
 「普羅ノート(七)」が全篇、新興俳句に対する記述にあてられています。私の理解の及ばない記述が多いので、要約した紹介は差し控えますが、興味のある方はぜひ参照ください。おそらく舗土さんの『評伝 前田普羅』の方にも立ち入った言及があることと思います。

〔追記:1/4〕
 『前田普羅 生涯と俳句』『評伝 前田普羅』の著者・中西舗土さんは、5年前に亡くなっておられました。昨日、拙文を書きながら、中西さんはまだお元気なのだろうか?、と気になっていたのです。あらためて確認したところ、中西さんは1908年の生まれですから95歳で亡くなられたのですね。
 確かな記憶が無いのですが、20年ほど前、普羅のことで電話で何かお尋ねしたことがあったのだと思います。簡素な礼状に対して、句をしるしたおはがきをもらい大事にしていたのですが、ゆくえ不明です。昨年が生誕百年にあたっていたことも、今になって知った次第です。ご冥福をお祈りします。

 *中西舗土    1908.07.04~2003.12.16

2009年1月 3日 (土)

『前田普羅 生涯と俳句』

 昨年末に、古書店で一冊の本を入手しました。中西舗土さんの『前田普羅 生涯と俳句』(角川書店/1971.7)です。

 軽い気持ちでページを繰り始めたのですが、舗土さんの師・普羅に寄せる熱い想いに思わずいずまいを正して普羅の世界に踏み込んでいくことになりました。旧日記にも普羅のことを少しは書いたのですが、どれだけ普羅のことを知っていたのかと思うと、大変心もとない次第なのですが、今更ながら普羅に向き合ってみたいと思っています。至便なことに「普羅小伝」や「普羅三百句」がついています。
 なお、戦中の普羅には新興俳句の動きに対してとったある疑惑がつきまとっているのですが、――この本にはまったくそのことが触れられてはいませんが、戦後の普羅の不安と孤独を舗土さんは摘出していて、――私にとってはそうしたまるごとの普羅を追いかけてみたいという思いを、この今ではもう読まれることのないこの普羅研究があらためていだかせてくれたものだったのです。

〔追記〕
 以前、舗土さんの普羅の評伝を持っていたのですが人に譲ってしまって、あらためて買おうと思っている間に10年以上経ってしまって絶版になっています。古書店で手にしたのがその評伝かと思い少し高価なこの本を買ったのですが、これは評伝――『評伝 前田普羅』(明治書院/1991.3)――ではなく舗土さんの普羅研究の成果「普羅ノート」を中心にした研究書だったというわけです。

 上に書いた、戦中の普羅のある疑惑については、かわうそ亭さんのブログの「前田普羅の密告者疑惑」をお読みください。
 http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2006/02/post_3b49.html

2009年1月 1日 (木)

来る年に

 いにしへは心のままに従へど
      今は心よわれにしたがへ   良寛

 と、良寛の歌として覚えていたのですが、一遍上人の歌?のようです。

 
 

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