無料ブログはココログ

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月31日 (水)

去る年に

 2008年も終わろうとしています。私事を許してもらえるなら書き記しておきたいのですが、今年の3月、ある凶事に見舞われました。そしてそのことに引きずられて一年、正気もなく過ごしてきました。
 ただそのとき3月、読んでいた堀辰雄に助けられるようにして精神のバランスを保たれたのだと思っています。また訳もなく何度も訪れた秋声と犀星のまち金沢は逃避と慰藉をうけいれ、あたえてくれました。

 この私のメモのような記事にご懇切なお便りくださった方、旧日記に並行してはじめた同内容のこのブログにコメントを寄せていただいた方、訪れた数々のブログに書き散らしたコメントにていねいな応対をしていただいた先達の皆様、有り難うございました。

漱石が来て虚子が来て

 漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)  子規

2008年12月29日 (月)

霜川、露風、《山田順子》、秋声

 きょう12月29日は「赤とんぼ」の日である。といっても、この季節、赤とんぼが群れ飛ぶ季節ではないことは言うまでもありません。日本を代表する歌曲「赤とんぼ」に、ちなむ日でなのです。といっても、この曲が作曲された日とか、初演された日とかではなく、ちょっと残念な日なのです。この29日は、曲をつくった人物が亡くなった日なのです。

 この曲をつくったのは、山田耕筰と三木露風。言うまでもなく作曲が山田耕筰、作詞が三木露風。なんの因果かこの二人とも、この年の瀬の12月29日に、合わせたようにというかあいついで亡くなっているのです。三木露風が1964(昭39)年。山田耕筰が翌年の1965(昭40)年。不思議なことがあるものです。

 ところでこの三木露風、今では「赤とんぼ」の作詞者として名前がでる以外、ほとんど見かけることのない名前になっていますが、北原白秋と人気を二分し「白露時代」と呼ばれた一時期を近代詩の歴史に残している大詩人なのです。
 この露風が、上京後の雌伏期間――明治40年頃――を、三島霜川のもとに居候として過ごしていたことについては、報告したことがありました。そして、徳田秋声とも面識を得ることになったことも書きました。露風が早稲田大学に提出した現住所が、なぜか《本郷区森川町一番地南堺裏 徳田方》――徳田秋声の自宅――になっていることも驚きとともに書き記しました。 

 こうした、霜川、露風、秋声の関係は、つながりはそこで終わっていなかったのです。なんと驚いたことに、小説家志望だった山田順子(秋声に老醜をさらさせ、かつ『仮装人物』という労作をもたらしたあの!山田順子です)に秋声への紹介状を書いたのが三木露風だったのです。このいきさつについては、また後日。

 ※霜川メモ:霜川と露風(1)(2)(3)(4)(5)ほか
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20051205
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20051206
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20060103
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20060120
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20060121
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20060123

2008年12月27日 (土)

山田盛太郎先生の命日

 今日は山田盛太郎先生の命日である。言うまでもないことながら、「先生」といっても面識はない。
 『山田盛太郎著作集』(全5巻)のうち何冊かを買い込んだものの、私の山田体験は未消化の『日本資本主義分析』どまりである。ヨーロッパの思想史を少し勉強していた私にとっては、日本の明治という時代も無縁なものだったので、あの独特な文体に凝縮された社会構造分析には入り込むきっかけすらなかったのです。
 いっしょに『分析』の読み合わせをした友人を失ってもう5年になろうとしていますが、今あらためて明治という時代にふれつつ、『分析』を読む機縁ができているかなと思っています。

 最後に在職された龍谷大学に、「山田文庫」(龍谷大学深草図書館)があることも、きょうあらためて知ったのですが、十分に活用されていないようなのは残念です。(この深草図書館には、「長谷部文雄文庫」もあるという。)
 手元に『山田盛太郎著作集』はないのですが、その第4巻の月報に紹介されている山田さんの歌を、孫引きながら写しておきます。(昭和33年、心筋梗塞後の回復後のものという。)

  うそ暗き門をすぎて一晝夜半 地軸の底より抜けだせり吾れも
  上へ上へと上昇のバッハ弥撒ロ短調 胸部垂直の激痛にしもや
  不死鳥は灰燼のなかに起つと云うまた零よりぞ出発すなる吾れは

 *山田盛太郎 1897.01.29--1980.12.27
 (山田先生も、同年生まれの法学者我妻栄氏も、前年に生まれた宮澤賢治と同時代を生きていたことを不思議な感覚で受け止めています。)

 (※)以上は、お二人の社会科学者の方のブログからの情報に拠っています。
 http://usagi-s.cocolog-nifty.com/regal/2006/10/post_816d.html
 http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080317

2008年12月26日 (金)

「農」の実践に賢治をいざなった人々

 宮沢賢治と「農」を深く結ぶ契機をつくった人間として、友人“保阪嘉内”と、盛岡高等農林に息づいていた農思想の淵源である“津田仙”を考えています。
 実は、今年ゆっくりと賢治と津田仙が共有するものを探っていこうと思っていたのですが、一歩目さえ踏み出すことができませんでした。賢治と津田仙は直接の面識はありません。津田仙の愛弟子であった玉利喜造〔盛岡高等農林の初代校長!〕とさえ、賢治は接する機会を持ちませんでした。しかし、結論だけを言えば、玉利喜造が築いた高等農林の学風を通して賢治は津田と向かい合ったことがあったと私は考えています。

 そんなことを、来年はじっくりと解きほぐしてみたいと思っています。その際、津田と賢治の傍らに“田中正造”をおいてみたいと考えています。

〔追記〕
 そう言えば、nenemuさんのブログ《イーハトーブ・ガーデン》に、4月末に次のような書き込みをしていました。

 “賢治が自分の畑にアスパラガスを植えていたとは知りませんでした。こんなところに津田仙と宮沢賢治のつながりを見いだせるのはうれしいことです。津田仙は梅子の非情な?父として名を挙げられることが多かったのですが、最近、西洋農学の移植者として再評価され始めたようです。アスパラガスの栽培を日本ではじめておこなったのも津田仙でした。
 盛岡高等農林がどのような農業教育と実践をおこなっていたか、津田が当時の農業教育でどのように評価されていたか調べたことはないのですが、津田の創刊した「農業雑誌」は1920年まで発行されていましたから賢治は盛岡高等農林在学中、目にしていたはずです。”

2008年12月23日 (火)

東京タワー50歳〔Semicentennial〕

 東京タワー開業50周年とのこと。場所は正確に覚えていないが港区に宿をとったとき、宿に向かう道を歩いていて振り返ったときそこに闇の中にあたたかく光るタワーに見下ろされていてホッとした記憶があるものの、実はまだ東京タワーにのぼったことがない。

 ところで、50周年は、英語では〔Semicentennial〕あるいは 〔Quinquagenary〕だと思うのですが、この際、なにかの折にメモしておいた、n周年の英語表記を写しておきます。

  Annual - 1 year
  Biennial - 2 years
  Triennial - 3 years
  Quadrennial - 4 years
  Quinquennial - 5 years
  Sexennial - 6 years
  Septennial - 7 years
  Octennial - 8 years
  Novennial - 9 years
  Decennial - 10 years
  Undecennial - 11 years
  Duodecennial - 12 years
  Tredecennial - 13 years
  Quattuordecennial - 14 years
  Vigintennial or vicennial - 20 years
  Semicentennial or quinquagenary - 50 years
  Semisesquicentennial - 75 years
      Variations: Demisesquicentennial or hemisesquicentennial
  Centennial - 100 years
  Quasquicentennial - 125 years
  Sesquicentennial - 150 years
  Demisemiseptcentennial or quartoseptcentennial - 175 years

2008年12月20日 (土)

白山、そして冬のイヌフグリ

 昨晩も雲ひとつない夜空で、たっぷりと冬の星座を堪能しました。そして一夜明けた朝方は、空気が澄んでいて立山連峰の山々は言うに及ばず南南西の県境の山の向こうに白山山系も顔をだしていました。

 道脇のあき地にノボロギクの花を目にした時は、その辺りにオオイヌノフグリのコバルト色のこまやかな花の返り花をさがしたほどの春先のようなぽかぽかとした日でした。今日は17.4度(富山)というあたたかい日だったのです。

 オオイヌノフグリの返り花の幻想をよびおこしてくれたのは、日塔貞子の詩「冬が来る」でした。

  けさも空地には霜柱がいっぱいだ
  返り咲いた酸漿や犬ふぐりの小さな花々が
  石炭殻の山の崩れになかば埋れて
  凍った手のひらを重ねあっている

  うっすらと陽ざしの色に染まってきた雲や
  淡いみずいろの滑らかに輝く空の下から
  初冬の風に歓声をひるがえし
  子供たちは霜柱を見つけて駆け寄ってくる
  出勤の道すがら ふと気紛れに
  子供たちに交って霜柱を踏みながら
  キラキラとして崩折れてゆく
  貧しい生活の夢の象徴をかんじていた

  そして やがては石炭殻の堆積の崩れるように
  異境に暮す私の夢と現実と
  酸漿や犬ふぐりの精いっぱいな営みも
  冷い埋没の底にしてしまう冬が来る

             遺稿詩集『私の墓は』より

2008年12月18日 (木)

“冬のダイヤモンド”

 明日から天気はまた下り坂だという。それにしても初雪は早かったものの12月は暖冬である。
 今日は少し雲が散在しているが、昨晩ほどではないが、星が良く見える。

 今日は帰りが遅くなり深夜の12時。オリオンは南天の高い位置にある。シリウスはもちろんまっすぐに目に飛び込んでくるのだが、――深夜の道に立ち止まって空を見上げている私を人は不思議に思うだろう――オリオン座の赤いペテルギウスとシリウスそしてプロキシオンでつくる「冬の大三角形」も確認するに手間取らない。そして星々を目で追って行くと眼の悪い私にもいくつもの明るい星が目に入ってくる。そうだ10年前に一度、星座表を片手に真剣に星々を深夜に追ったことがあったのだ。なんでこんなすばらしい「星座」という自然と人類の傑作遺物を、余命いくばくもない人生の晩年まで知ろうとしなかったのかという後悔と、悠久の星の世界に分け入る感激を同時に味わいながら。あれから10余年間、私は何をしてきたのか・・・。

 大三角形の杯にちょこっと乗っかるように位置する星は何なのか。そのそばに明るく二つ輝くのは「双子座」のカストルとポルックスではないのか。シリウスとオリオンの三ツ星を結ぶ線上に、シリウスと対称的な輝く星は何なのか。家に駆け込んで、パソコンの立ち上がりももどかしく「冬の大三角形」を検索すると、「冬のダイヤモンド」とも呼ばれる「冬の大六角形」の星々の図がある。メモ用紙にダイヤモンドの星々の位置関係をメモすると、居ても立ってもおられず薄着のパジャマにコートを着込んで外に飛び出さずにおられなかった。
 もう今冬、星を見られる機会が何度あるかわからないのだ。私の目に入る限りの星々でさえ、生のある間に、その名を覚えることはできるだろうか。
 見上げる空に、星を結ぶ「大六角形」はあまりに大きく弧線を描いていました。

〔追記〕
 文中の「今日」は、12月17日のこと。
〔参考〕
 http://www.j-muse.or.jp/tamatebako/tentai/cb15/index.html

2008年12月13日 (土)

阿彦伝承メモ

 先日、「神便鬼毒酒」のメモ書きをしましたが、これは人には力を与え、鬼からは力を奪うという妖酒です。

 この「神便鬼毒酒」、酒呑童子の鬼退治の小道具として登場しますが、大正9年に郷土史家の土田古香氏が「高岡新報」に寄稿された「鬼ケ城で阿彦鬼退治」という郷土の読み物に、誤植だろうと思いますが「神使鬼毒酒」としてこのお酒が出ています。この土田氏の古い記事を見つけてくださったK書房の勝山さんにはお礼のことばもないのですが、お酒のことはともかく、土田氏の物語は創作の部分も含むとはいえ、富山県の砺波地方に酒呑童子の鬼退治と類似の言い伝えが、――忘れ去られた地名伝承や神社由来の存在を示唆しながら――あったことを推定させる内容になっているところが関心をひきます。

 越中の古伝承に「阿彦」という大和朝廷にまつろわぬ妖力をもった人物が登場すること、朝廷が平定のために大若子命を越中に派遣したこと、などはこのブログの前身である旧日記に何度か話題にしたことがあります。が、《「阿彦=鬼」→「鬼退治》という明確な図式の伝承は私自身確認していなかったので、阿彦伝承の整理のためにも土田氏の「鬼ケ城で阿彦鬼退治」物語の裏にある(あった)伝承をあらためて掘り起こす作業が、必要となってきます。

 私としては、1.古代文献における「アヒコ」人名(依網吾彦垂見〔依網阿毘古〕、依網屯倉阿弭古など)の諸態様 2.各地の「アヒコ」地名・人名の歴史的背景 3.越中の阿彦伝承と吉備の温羅伝承の構造の類似性 4.東北の「安日(アビ)・阿倍」伝承とアヒコの関連性などをまず整理しようと思っていたのですが、――5.あらためて富山県内に残るアヒコ伝承の掘り起こしが、課題として加わることになります。
 手に余るテーマばかりです。

〔追記〕
 実は、江戸時代に書かれた「泉達録」の阿彦伝承にも「鬼ケ城」はさりげなく出てきます。そのことの関心から砺波の郷土史家の尾田さんの掲示板に書いたメモと、尾田さんの貴重なコメント(今年6月)を転載しておきます。

かぐら川:栴檀山別所の鬼ヶ城(別名安川城・浅谷城)に鉄伝承があるのですか。ここについては別のことから関心を持っていました。ぜひ次回お伺いした折に・・・。

尾田:石仏と同じくらいに栴檀山別所の鬼カ城は関心事です。鬼伝説と鉄のかかわりは、若尾五雄氏や五来重氏が説かれています。また白鳥伝説と鉄との関わりもあり、別所という地名も鉄と関わります。
現在栴檀山の鉄に関係ある地名や伝承を探っています。
日本民俗学(富山の民俗学も)は稲の文化を追求している人が多いですが、定着民でない非定着民や遊行の人々に関心を持つ研究者は少ないと思います。

 以下、自分のために以前書いたメモの整理です。
 〔追記2〕
・旧日記に書いた「阿彦伝承」メモ
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20050624
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20070124
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20070126
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20070301
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20070331


・地名/人名の「アビコ」についてrenqingさんのブログに書いたメモ;
「我孫子は、アビコないしアヒコの当て字ですね。藤子不二雄Aは、安孫子素雄ですし、ほかにも吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿彦、阿比古、吾彦、我子などさまざまなヴァージョンがあります。「我孫子」の地名に限っても千葉県の我孫子市のほかにも大阪市住吉区我孫子、同泉大津市我孫子、奈良県橿原市我孫子、福岡県直方市我孫子、埼玉県羽生市我孫子などなど山のようにあります。古代のアビコ(アヒコ)が何であったのか、――古いところでは直木孝次郎氏の「阿比古考」という論文がありますが――その意味・語源とも未だに明らかになっていないと言ってよいと思います。」

2008年12月12日 (金)

「文翔館」と田原新之助

 歴史的な建造物の味わいが好きで、net上でもそうした建物を紹介しているブログをよく見ているのですが、思いがけないところで――日塔貞子企画展を紹介したブログ「雪に燃える花」――いい感じの建物を見つけました。現在は「文翔館」という名で親しまれている大正期の建造物・旧山形県庁です。
 「雪に燃える花」  http://outoukakai.exblog.jp/9041111/

 「建物逍遥」というすてきなブログに「文翔館」の興味深い紹介の記述がありましたので、そのまま引用させていただきます。

 “1926年(大正5年)6月15日落成。煉瓦造3階建て。外壁は花崗岩の石張り。スレート葺き。内装は装飾の施された漆喰壁が主体。幅62メートル、奥行き40メートル。延べ床面積6659平方メートル。権威主義を醸す英国ルネッサンス様式の意匠。
 設計した田原新之助はコンドルの内弟子として建築設計を学び始め、工部大学校(東大工学部の前身)で教鞭を執った曽禰達蔵の下で働き、曽禰中條建築事務所に就職。事務所の中條精一郎が米沢市出身だった縁で設計に当たった。落成の2カ月後、田原は死去した。”
 http://syoyo.jugem.jp/?month=200606

 設計者・田原新之助については生年もわかりませんが、コンドルの弟子というところも気になるところです。時間のある時に、経歴や作品を調べてみたいものです。なお、中條精一郎と田原新之助のコンビの作品としては、福島県白河市の「旧西白河郡役所」があるようです。
 http://maskweb.jp/b_nishishirakawa_1_1.html

2008年12月11日 (木)

ちょっとメモ:「神便鬼毒酒」

 「神便鬼毒酒」

 “神の方便と鬼の毒”の名を持つ霊酒。

2008年12月 9日 (火)

柳老春深日又斜

     楊柳枝     白居易

 柳老春深日又斜 任他飛向別人家
 誰能更学孩童戯 尋逐春風捉柳花

  ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 突然、柄にもなく漢詩とは?、と思われる方があるかも・・・。内緒です。

2008年12月 6日 (土)

モーツァルト:序曲集&アリア名曲集

 モーツァルト:序曲集&アリア名曲集(男声編)

 古書ショップで『近代日本の万能人――榎本武揚』(藤原書店)とともに買ったもの。このような本のあるはずもないショップ(新古書店)で、この本を半額以下で買えたのは奇跡に近い。なんと出掛けに藤原書店の冊子でこの本の紹介を見ていたばっかりなのだ。この点もどう考えても符節が合いすぎている。が、私には武揚と似たような境遇ながらテクノクラートとして明治的近代化に確かなくさびを打った大鳥圭介のことの方が興味を惹かれる。

 そんなことよりあまり期待はしていなかったオトマール・スウィトナーのこのモーツァルト。冒頭の「後宮からの逃走」序曲の軽快で凝縮度のある音運びに心が躍る。こんなモーツァルトが聴きたかったのだ。

2008年12月 5日 (金)

初冬の孤光

 ここ三日ほど帰りの遅くなった初冬の道の正面にオリオン座がくっきりと見えていた。またその下にまたひときわ明るい孤星が印象的である。シリウスという名さえ思い出せないほど私の星に対する知識も付け刃的なものなのですが、そう言えば去年も亡くなった父の遺体を病院の裏口から運び出した夜、オリオンを見ていたような幻覚がまぶたを離れない。あの夜は晴れていなかったはずなのに。
 父への感謝の気持ちが不審な死へのこだわりを消し去ってくれはしたが、それでよかったのか。この親不孝な子に他人の手になる一連の医療ミス、誤診を責める資格があったのか、そんな思いがなぐさめになったりみずからのさげすみになった一年でした。

 シリウスの孤光をうけて冴え返る

〔追記〕
小春日和の日々に、思わず春の季語を使ってしまいました。

2008年12月 2日 (火)

“三宅雪嶺”事始め

 正直なところ三宅雪嶺については、まったくと言っていいほど興味を持ってこなかったのですが――樋口一葉の友人でもあった妻・三宅龍子(田辺花圃)や娘婿・中野正剛らの方が興味があり――彼の母が、黒川玄龍の長女だということを知って俄然、その生い立ちなども知りたくなってきました。(シーボルト、緒方洪庵、坪井信道らに学び佐久間象山に蘭学を教えたという蘭学者・黒川良安は、黒川玄龍の子(長男?)ですから三宅雪嶺のおじにあたることになります。)

 三宅雪嶺の略歴を目にすることは再三あったにも関わらず、国粋主義者という誤解がいつのまにか頭の中にこびりついていて、雪嶺が足尾鉱毒事件にも被害農民や鉱夫の立場で論陣をはったという項目は読み飛ばしていたような気がします。

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

最近のトラックバック

2016年10月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31