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2008年9月

2008年9月30日 (火)

メモ:南日三兄弟

 9/24にふれた「南日三兄弟」について、とりあえず生没年のみ、列記しておきます。恒太郎は、太陽暦が採用される前の生まれで、当時の表記では〔明治4年9月30日〕――つまり今日が誕生日――となりますが、比較のためもありグレゴリウス暦表記に換算したものにしました。

 南日 恒太郎(なんにち・つねたろう)
  1871(明04).11.12~1928(昭03).07.20  
 田部 隆次(たなべ・りゅうじ) 
  1875(明08).10.20~1957(昭32).12.20
 田部 重治(たなべ・じゅうじ)  
  1884(明17).08.04~1972(昭47).09.22

  ところで、〔あのひと検索SPYSEE(スパイシー)〕というのがなかなかおもしろい。
 検索窓に南日恒太郎 を入れてみると、↓こんなぐあいです。
 http://spysee.jp/%E5%8D%97%E6%97%A5%E6%81%92%E5%A4%AA%E9%83%8E

 〔追記〕かつて(2005.7.25)、「わかりにくい話」という題で、南日恒太郎の誕生日のことを書いたことがありました。
 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=325457&log=20050725

2008年9月28日 (日)

「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」

 今日初めて知った知ったのですが、神奈川近代文学館で「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」が開かれるという。

 以下、日本経済新聞の「文化」欄より。

 「世界的な金融不安や政情不安などで世の中が混沌とするなかで、乱世を描いた戦後派作家、堀田善衛を見直す動きが出ている。没後十年のこの秋、神奈川近代文学館(横浜市)で大規模な「堀田善衛展 スタジオジブリが描く乱世」が開かれ、新資料『堀田善衛上海日記』(集英社)が刊行される。」
 「「堀田善衛展 スタジオジブリが描く乱世」(10月4日―11月24日)は、遺族から寄贈された13000点の資料から厳選した創作ノート、生原稿、書簡、写真などの500点を展示。堀田の愛読者だった宮崎駿監督や鈴木敏夫プロデューサーのスタジオジブリが展示に協力している。」

 *堀田「善衞」の表記は、新聞引用はそのまま「善衛」とさせていただきました。

  http://www.ghibli.jp/10info/005177.html

2008年9月27日 (土)

初冠雪の候 雑録

 昨晩から、肌寒い――この季節にはふさわしくない語感ですが――と思っていたら、立山初冠雪。平年より12日早いとのこと。

 ある方から特別展《若土前田家の人々――お殿様の孫 前田則邦が生きた幕末・明治》〔富山市郷土博物館/富山市佐藤記念美術館〕のチケットをいただいたので予定を変えて足を運ぶ。この前田家分家の前田利民、前田則邦については、また書く機会を持ちたいと思いますが、驚いたのは会場の「富山市郷土博物館」。リニューアルしたことは知っていたのですが、富山前田藩と富山城をめぐる展示の充実には目をみはる思いでした。

 高岡の古書店で犀星の随筆集『文芸林泉』(昭和9)の初版本を見つけ少々高価なるも購入。拾い読みながら書を読む楽しみを味わいました。裏表紙内に「六月鳴蛙の候 凌雲草堂」の書きこみがあるが、〔凌雲草堂〕は検索にはひっかってこない。

2008年9月26日 (金)

八雲忌――9月のサクラ

 桜葉の匂い――さくら餅の芳しさ!――がどこからともなく漂ってきて、よく見るとサクラの落葉が一面に広がっています。枯れ葉もいい香りがするのです。
 もうこんな季節?と思ったのが25日木曜の朝でしたが、その日の夜読んだ田部隆次『小泉八雲』のなかの八雲(ハーン)夫人小泉節子さんの「思い出の記」にこういう一節がありました。

 “亡くなる2、3日前のことでした。書斎の庭にある桜の一枝が返り咲きをしました。(中略)ヘルンに申しますと、いつものように「有難う」と喜びまして、縁の端近くに出かけまして「ハロー」と申しまして、花を眺めました。「春のように暖かいから、桜思いました。ああ、今私の世界になりました。で咲きました。しかし……」と言って考えていましたが「可哀相です。今に寒くなります。驚いて凋みましょう」と申しました。花は一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、誉められていましたから、それを思うてお暇乞いを申しに咲いたのだと思われます。”

 ハーンの亡くなった1904年の9月後半は暖かかったのでしょうか。

2008年9月24日 (水)

八雲の東京(1)――田部隆次『小泉八雲』より

 読みたいと思っていた田部隆次のハーンの伝記『小泉八雲』をきのう金沢で入手しました。といっても1914(大3)年に早稲田大学出版部から出された初版ではなく、増補改訂(第三版)を経た第四版(北星堂書店/1960.1)です。 ページを繰っていましたら、3年前の拙日記(2005.9.20)でふれたハーンの上京――帝国大学文科大学の講師就任のため――の折〔1896夏〕の宿泊先が書かれていました。まず3年前の拙日記(2005.9.20);

 “ここに〔追記:『司馬遼太郎街道をゆく・12/本郷界隈』(朝日新聞社/2005.4)の「明治期の本郷界隈文人マップ」に〕小泉八雲も載っているのです。そして、「1896から6年間、東京大学の英文学講師。後任は夏目漱石。(湯島4-8-6)」と説明があり、地図上にドットされているのは、湯島4丁目。
 そこに示されているのはかつての「龍岡町」。この説明だと、ここに八雲が住んでいたようにも受けとられかねない扱いですが、龍岡町の龍岡楼は富久町に住むまでの約1ヶ月間の止宿の地です。(このような歴史本の場合、「東京大学」というのもいかがなものかと思うのですが・・・。)”

 以下、田部隆次『小泉八雲』からの引用。表記を少し変えてあります。

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 (ハーンは)明治29年8月20日、まず夫人と共に上京して本郷赤門前の三好屋に投宿した。ここで外山博士の来訪を受けた。ここは23年の春横浜から上京の際、偶然車夫に引き込まれた宿であった。なにぶん手狭であったので同28日龍岡町の龍岡楼に転じた。清水書記官の世話で小石川に西洋館のある邸宅を見たが気に入らない。ついに大学から遠いのを一つの取り柄に、市ヶ谷富久町21今の成女高等女学校(当時まだなかった)の門前の高台で日当たりのよい新築の家に移ったのは9月26日であった。この家はその後梅沢中将が借りていたが、今はもうない。後ろは自証院円融寺(俗称瘤寺)であった。

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 田部隆次〔たなべ・りゅうじ/1875.10.20~1957.12.20〕は、帝国大学(ハーン就任の翌年、東京帝国大学となる)時代の教え子。彼がその次男である南日三兄弟については、書きたいこと――いや調べたいこと――がたくさんあるのですが・・・。それはいずれまた。
 明後日、9月26日はハーン(小泉八雲)が心臓発作で急逝した日です。それは東京に居を構えてからちょうど8年後、1904(明37)年のことでした。

2008年9月23日 (火)

室生真乗の命日を金沢で過ごす

 今日は、91年前の1917年9月23日未明に室生犀星の養父・室生真乗が亡くなった日でした。第一詩集『愛の詩集』に“みまかりたまひし父上におくる”と犀星によって書かれた父は、私生児として雨宝院の内妻赤井ハツ預けられた犀星(初めは赤井照道のちに室生照道)をいつくしみ育てた慈父だったのです。東京田端から帰郷し父を看取った犀星は、当時萩原朔太郎とともに発行していた詩誌『感情』に「故郷にて」と題して、直後に次のように父を誄う文を書いています(14号〔大正6年10月号〕から一部引用)。

 “父は九月二十三日の未明に逝去した。僕や母や兄はその口もとに手をあてたり鏡をあてたりして、あるかないかの呼吸をためして見たが、午前一時には指の先きをも顫はせずに引息とともに絶へてしまった。父は七十四の高齢を保って真言宗の一僧都として、その神の如き善良な生涯を送った。(中略)
 父の呼吸があるかないかといふときにさへ、父が今死にゆこうとすることが考えられなかった。けれども引き離しがたい死は刻々に父にせまり、さいごにその冷えかかったからだに触れたときに、完全に父が此の世に於ける生存が終ったことに気がついた。僕はあたまを深く垂れて僕に与えてくれた父の永い愛撫に就いて感謝し又永い間祈祷していた。”

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 数日前からこの日のひと時を、犀星が育った寺であり真乗が住職を勤め亡くなった雨宝院で過したいという思いが強くなり、当初予定していた仕事も放棄してしまって、きょう金沢に向いました。この思いは私事にもつながるので細述は控えますが、今年の5月に初めて雨宝院を訪れた際、この寺の4代前の住職である室生真乗の位牌が本堂に祀られていたことが記憶の底から甦ってきたのです。展示されている『感情』から上の追悼文を写した後、“当山第廿弐世伝燈阿闍梨真乗法印霊”(右脇に「大正六年」左脇に「九月廿三日」)と書かれた位牌を室生朝子さんの位牌ともども暗い本堂に見つけつくづくとながめながら、この少し大き目の――犀星の志によってつくられたものなのかも知れません――位牌に手を合わせて真乗さんの冥福を祈ってきたことでした。

 *室生真乗 弘化元年三月四日(1844.4.21)~1917(大6).9.23

2008年9月20日 (土)

賢治をめぐる新書二冊

 賢治の命日である9月21日をはさんで賢治にふれた2冊の新書が世に出された。20日発行の山下聖美『宮座賢治のちから』(新潮新書)と、22日発行の佐藤竜一『宮澤賢治――あるサラリーマンの生と死』(集英社新書)である。

 先に読んだ佐藤氏の『宮澤賢治――あるサラリーマンの生と死』の感想を書きとめておきます。
 著者は本書の最後を“童話作家や詩人として知られる賢治だが、生前はそれでお金を稼げたわけではなく、一介のサラリーマンにすぎなかった。そう思いながら作品に接すれば、新たな賢治に出会うことができるかもしれない。本書はその招待状である。”と、きれいにまとめているが、著者自身の第三章「技師兼セールスマンとして」の平明な記述は賢治の人生の破たんを痛々しいまでに描いている。賢治的誠実さを実践しつつ破綻に終わった賢治の生を、賢治ファンにとってはつらいことかもしれないが、そのまま受け入れてはいけないのか。

 “私としてもこれから別に家庭を持つ訳でもなし月給五十を確実に得れば、あとはこの美しい岩手県を自分の庭園のやうに考へて夜は少しくセロを弾きでたらめな詩を書き本を読んでゐれば文句はないのですから(後略)”という高等農林の後輩工藤藤一宛ての手紙は、自ら選んだセールスマンとしての生を自嘲とさえとれる諦観をもって吐露している。さらに長文になるのでここには引用しませんが死の10日前に教え子柳原昌悦に宛てた手紙を、佐藤さんの本で読んでいただきたい。賢治が最後にたどりついた位置を「自分の築いてゐた蜃気楼の消える」と、賢治自身が語りつくしていて心を打つものがあります。

 大団円としてでなく破綻として賢治の最後の生を見つめる視点を、佐藤さんの本によって得たのですが、山下さんは賢治の最後をどう提示してくれるのでしょうか。

2008年9月18日 (木)

飯田青涼の『女の夢』

 代作の受け入れ先――自分の作品をその人の名で発表してくれる売れ筋の作家――を紹介してほしいと漱石に頼み込んだ作家志望の男“飯田政良”に答えた漱石書簡を霜川との関係で紹介しましたが(8/25)、『漱石全集』(第23巻/書簡・中)巻末の「人名に関する注および索引」では、飯田政良について生没年のデータの記載もないまま、次のようにのみ書かれています。

 「飯田政良 青涼と号す。早稲田南町の夏目漱石の隣に住んでいた。漱石の世話で小説『町の湯』を雑誌『新小説』に発表。また徳田秋声の代作などしていた。」

 また、大阪朝日新聞の長谷川如是閑宛ての漱石書簡――清涼の作品の掲載について、秋声が秋声名義の完全な代作ではなく「秋声・清涼合作」というなら了解すると清涼に答えたことを伝えて善処を願う文面です――に付された注では、次のように書かれています(数字表記を一部変更)。

 「この作品は「女の夢」と題された小説で、「徳田秋声 飯田精良合作」として『大阪朝日新聞』に発表された。連載第一回は(明治44年)6月11日で、9月7日、86回をもって完結した。」

 この連載小説は15年後の大正14年に『女の夢』という同名の単行本としてに世に出ることになるのですが、この単行本の書誌的詳細を2反田さんが「《霜川年譜》などメモ帳(9.16/17)」に、紹介してくださいました。この作品の梗概や作者清涼の「自序」、秋声の序文などを引用し興味深いコメントを付してくださっています。↓にお立ち寄りください。
 http://6623.teacup.com/kagura03/bbs

2008年9月15日 (月)

久しぶりの金沢

 鬱々とした気分で金沢へ向かう。逃避と言われようと、今の私にはさばききれない行き詰まった人間関係のなかで黙するのみ、ささやかな抵抗と気分転換。

 秋声記念館では「自然主義文壇の雄・秋声と田山花袋展」の会期中。ところで、前企画の「『仮装世界』の世界――女弟子・山田順子との恋――」展を見に行く機会を逸してしまったのですが、この前企画展の力のはいったガイドぺーパーをいただいて、悔いることしきり。あまりに残念で、8Pにもわたるこのガイドぺーパーの熟読も先送り。
 そうそう、今回の企画展については田山花袋のことをまったく知らなかったことを再認識したものの、秋声と花袋というテーマについてそれ以上に私のなかで熟してないことに気づいて、記念館においとましました。

 浅野川が以前の清流に戻っていることになんとも言えない深い安堵を覚えながら、浅野川沿いの「秋声のみち」を、あうん堂さんに向うことに。

 室生犀星は自伝的な文章を生前に何度も書いているのですが、歿後も長女の朝子さんが『憑かれた人――二つの自伝』というタイトルで、文潮社の自叙伝全集シリーズとして昭和24年に出された『室生犀星』と昭和36年に日経に連載された「私の履歴書」を合冊した、犀星自伝を冬樹社からだされています。その本の初版本をあうん堂さんで運良く見つけることができ、おいしいコーヒーも味わうことも忘れて、あちこちページを繰りながら、お昼を過ぎたことに気づいてお店を後にしました。実は、この二つの自伝は、読んだつもりでいて、実はまったく読んでいなかったことに気づいたのです。

 帰りの列車の中で、F先生とばったり。宿題のまったく進んでないことをお詫びし、匆匆と帰宅。

2008年9月13日 (土)

久保尚文『越中富山 山野川湊の中世史』

 久保尚文『越中富山 山野川湊の中世史』(桂書房/2008.9)
 
 “山野川湊(さんやせんそう)”という壮大な地勢語をタイトルにもつ――それは、本書の対象だけではなく隠れた方法論の一端を示すものでもあると思われるのですが――この論集は、それは久保さんらしい緻密で篤実な実証的研究に裏打ちされた富山の中世史研究を一歩進める意欲的な研究書なのです。
 私などに読みとおせるしろものではないが、少しはかじりついて学びたい本。

2008年9月10日 (水)

悠々忌

  悠々忌

 この際、三島霜川のエッセイ風の文章「自伝」から桐生悠々に関する部分を摘記しておきます。

  ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 父に死別れたのは二十の時で、僕は神経衰弱になるし、不得要領の中に、一年と云ふ長い月日を滅茶苦茶の中に送って了って、そして二十一二の春ころまでは、書くでもなく、書かぬでもなく、貸してあった金を取ったり、家財を売ったり、誠に混沌たる生活をした。其間田中凉葉なぞと一緒に下宿したが、其中凉葉は紅葉先生の塾に行くし、僕は一人になってごろッちゃらして居たが、それではごろつき書生になると云ふので、叔母なぞが心配して、其一年ばかり前から心易かった桐生悠々君の所へ行くことになった。
 桐生君は、僕の文学生涯には忘れることの出来ない人で、其所に行くまでは文学が好きであったが、唯、意味も何も知らずバッとして居た。其時桐生君は法科の二年であったが、始終シエークスピーヤだとか、トルストイなぞを説いた、僕はそれに依って泰西の文学を知り、真面目に文学を研究し真面目な意味に文学を了解して来て、其所に三四月居る中に、何であったか書き初めた。
 それで、其時は最う生活費の方は尽きて、桐生君の所を出てから、七月ごろ〔池之端〕七軒町へ家を持って、翌年の四月まで、約十ヶ月其所に居った。其時一家四人、露骨に云ふと殆んど三度の食事も食ひ兼ねた。それは、僕の最も暗黒時代で、未だ一家を支へるだけの腕はなし、頭は固らず、読んで修養すべき書物はなし、不安恐懼に満ちた生活をして居た。

2008年9月 9日 (火)

大正初年の犀星

 森まゆみさんの『不思議の町 根津』に根津界隈時代の室生犀星についての記述がありました。
 明治43年5月6日の初上京の後、根津片町→谷中三崎町と移り住んだという具体的な記述のあと、8月に帰郷とあり、以下のように続きます。

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 明治44年10月 二回目の上京、駒込千駄木町田中方に下宿
 明治45年7月 二回目の帰郷
 大正2年1月 三回目の上京、根津権現裏紅梅館に下宿。同年夏、帰郷。
 大正2年11月 四回目の上京、本郷弥生町一、六条方に下宿

 大正3年冬、谷中に転居した可能性があるという。この年2月、はじめて萩原朔太郎と会う。そして前橋に朔太郎を訪ね、一か月近く滞在して帰京し、千駄木町42番地蔵田方に止宿。これを追うように朔太郎が上京し、千駄木町120番地萩谷方に止宿して、前橋、東京を往復している。このころ犀星は朔太郎とまるで兄弟のような親しさで、連れ立って池之端の大正博覧会を見たり、根津権現内のベンチの上で即興詩を作ったり、林町の高村光太郎を訪ねたりしている。 

  ━━━━━━……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━━━

 ところで少し気になるのは、大正2年1月と夏の上京と帰郷、大正3年に朔太郎が止宿したという千駄木町120番地萩谷方、である。(続)

2008年9月 6日 (土)

友情、友の死、父、川、林檎・・・

 突拍子もないことを言うようですが、犀星の『性に目覚める頃』が賢治の『銀河鉄道の夜』にある影響を与えているのではないか、そんなことを久しぶりに犀星のこの小説を読みながら感じました。いかが思われますか。

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